タンザニアの芸術家たち


リランガ<美術>
ザウォセ・チビテ<民族音楽>
ナンポカ<マコンデ彫刻>

真夜中の夢


ジョージ・リランガ(George LILANGA)

リランガ-水彩  シェタニ=精霊をモチーフにした芸術家といえば、ジョージ・リランガを忘れるわけにはいかない。モザンビーク出身のマコンデ人で1934年生まれ。のちにタンザニアに移住した。家業はサイザル農家だったが、「男達は、昼過ぎに畑仕事から戻ると、彫刻をしはじめる。バナナの葉の屋根の小屋の下でね」という環境だった。リランガ自身も幼い頃にキャッサバを木のかわりにして見よう見まねで彫り始めたそうだ。

 1972年にダルエスサラームに移住し、ニュンバヤサナー(芸術の家)の作家の一人となってからは、マコンデ彫刻だけでなく、バティック、油彩画、エッチングなども始めた。現在はフリーの作家となり、日本を始め世界各地で作品展を行ってきた。その図柄はどれも頭がたくさんあったり、舌が2枚あったりする奇妙な格好のシェタニなのである。だが、どれも憎めない顔をしているし、その笑顔にはこちらまで引き込まれてしまうという効用がある。

 リランガの絵には一つ一つお話がある。それは、夜中にリランガが眠っている時にやってきたシェタニのしでかしたことだそうだ。シェタニたちは、空を飛んだりもするが、太鼓で踊る、水汲みに行く、畑仕事や夫婦喧嘩をする、病気になるなどと、人間たち(特にタンザニアの)にとても似ている。その構図の大胆さや、色使いの楽しさなどとともに、親しみやすいシェタニたちがリランガ作品の魅力の一つとなっているのだろう。

 2000年に大病で長期入院し、一時は危ない状態の時もあり、両足を切断したが、その後、リハビリに励み、今では車椅子を足にして動いている。2001年9月ダルエスサラームで初の個展が開かれ、健在ぶりを示した。

 残念なことにリランガは2005年6月27日に帰らぬ人となってしまった。
(訃報は右記に→
リランガ<追悼>)

1986年以来、毎年リランガの絵でカレンダーを作成している。2008年以降はリランガのバティックを使った一枚もののカレンダーを作り、ご好評をいただいている。このガイドブックにもこれまでのカレンダーの絵などを使わせてもらっている。
リランガカレンダーにご関心のある方は、JATAツアーズまでご一報を。

→リランガ・カレンダー

祖父ジョージ・リランガに認められた「リランガ派」の後継者


ヘンドリック・リランガ(Hendrick Lilanga)

1974年生まれのジョージ・リランガの孫。幼いころから絵を描くのが好きだったそうだ。中学進学のかわりに祖父の傍らで その仕事する姿を眺め、たくさんの話を聞き、そして認められて、絵の仕上げの手伝いも任せてもらえるようになっていった。 ヘンドリック・リランガのシェタニ世界がこれから広がっていくことだろう。

ヘンドリック・リランガ関連サイト
シェタニの孫☆ヘンドリック・リランガ「タンザニア徒然草」
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七色の声を持つ男


フクウェ・ウビ・ザウォセ(Hukwe Ubi ZAWOSE)


チビテと一緒に踊るザウォセ 七色の声を持つ男といわれるフクウェ・ウビ・ザウォセは、1938年ドドマ生まれ。ゴゴ人である。農家に生まれるが、村にはいつも音楽があふれ、幼少の頃から楽器を手にしていた彼は、伝統楽器である弦楽器のゼゼや親指ピアノともいわれるイリンバなどを自分で改良して弾きこなすようになる。おまけに人々が涙して酔いしれるほど甘美な声の持ち主でもあった。1967年に当時の大統領ニエレレ氏がドドマでザウォセの演奏を聴いて感動し、彼をダルエスサラームに呼び寄せて、国立歌舞団結成に加わらせた。その後、バガモヨ芸術短期大学の教師となり、その中から選りすぐったバガモヨプレイヤーズの主要メンバーとして日本も含めた世界各地で演奏し、好評を博したのである。彼の空を駆けていくような澄んだ高い声から地を這うような低い声までのバリエーション、まさに七色の声は一度聞いたら忘れられない。ふくよかな身体を揺らしながら奏でるイリンバやゼゼの演奏は、荘厳であるばかりでなく、時にはコミカルでもある。芸術短大は1993年に退官したが、ザウォセは、今や国宝といってもいいほどのタンザニアを代表する音楽家なのである。

バガモヨにある彼の家は、5人以上の妻とたくさんの子供たち、その家族や孫や甥、姪、親戚など総勢40名以上が一緒に住んでいる。現在は、その大家族からメンバーを集めて、チビテ(ゴゴ語で「一緒に行こう」という意味)というグループを作り、その指導育成に当たっている。無論、ザウォセが中心メンバーである。甥のチャールスとは何度か海外公演をしてきたが、チビテとしては、1999年に初の海外公演である日本縦断公演を成功させ、2000年にも日本で、2001年度はスウェーデンでも行っている。

JATAツアーズの目玉であるオルタナティブツアーは、農村滞在とこのチビテの演奏会がメインとなっている。コンサートホールでの演奏会もよいが、青空の下、ザウォセの家の庭にあるマンゴの木の下で、牛や豚や山羊の鳴き声を聞きながら、近所の子供たちと手拍子、掛け声なんでもありで一緒に楽しむコンサートは、また格別である。カリブ、バガモヨ!

チビテは2003年秋にも2ヶ月の日本公演を行い、好評だった。

その後も活躍を続けていたが、残念ながら2003年12月30日に帰らぬ人となってしまった。
★葬儀の詳報は右記に→
ザウォセ<追悼>

そして甥のチャールスも2004年10月に病気で天に召されてしまう。

しかし、その悲しみをバネにして現在はザウォセの一族を中心とした楽団CHIBITEが彼の後を継ぎ、2008年の日本公演も成功させている。


ゴゴ民族の伝統音楽から羽ばたいていく


オーケストラで踊るCHIBITE チビテ(CHIBITE)


フクウェ・ウビ・ザウォセの一族を中心とした楽団。40数名のメンバーからなる。彼らに関する記事はCHIBITE NEWSへどうぞ!

 CHIBITEに音楽を習う企画もある。→タンザニア伝統音楽をやろう

 

漆黒のシェタニを生み出す魔術師


エバリエスト・ナンポカ(Evarist NAMPOKA)


 ナンポカのマコンデ彫刻は、すべてシェタニ(精霊)である。どれが手だか足だか身体だか悩み出したら一生解決しなさそうだが、一見勝手に伸びているようなその黒く細い曲線たちは、実はしっくりとつながり合って一体のシェタニを生み出している。ナンポカのマコンデ彫刻目や歯や鼻や角などと思われるものが所々に付いていて、その存在感をふりまいている。気持ち悪いと思う人もいるかもしれないが、その立ち姿は、モダンでシンプルで潔い。

 ナンポカは作家としてはあまり恵まれたほうではなかった。1944年に隣国モザンビークの農家に生まれた。1966年にタンザニアの首都ダルエスサラームに移り住み、生活のためにマコンデ彫刻を始めた。最初は人物を彫っていたが、「人間は神の創りたもうたものだが、シェタニは私自身の想像の産物」ということで、シェタニのみを彫ることにした。そう決めてからはお金にとても困っている時や、お腹の空いている時以外は、次々とアイデアが浮かんできたそうだ。

 1997年12月のスワヒリ語新聞の記事で彼は、「政府は芸術家たちを長い間冷遇してきた」と自分と彫刻の写真入で訴えた。最も困ることは、作品を売る場がないことだ。土産物屋などに下ろしても、代金は売れてからしかもらえない。彼は、JATAツアーズのオフィスにも作品持参でよくやってきた。私たちに余裕がない時でも作品を見るとどれも惹かれるところがあり、ついつい欲しくなってしまうのだった。

 ナンポカは2000年の5月にあっけなく亡くなってしまった。体の調子が悪いと訴えた2、3日後のことだったらしい。赤痢をこじらせたということだった。病院で布でぐるぐる巻きにされた彼の遺体と対面したが、それでも信じられなかった。でも、ナンポカの残したシェタニたちは、さりげなく、でも威厳に満ちて、黒い光を放っている。
 

シェタニの一番弟子


マティアス・ナンポカ(Matias Nampoka)

エバリスト・ナンポカは子どもが6人いたが、3番目のマティアス・ナンポカは父の後を継いでマコンデ彫師となった。1971年生まれ。やはりシェタニを彫り続けている。小学校7年生を終わるころから、父の彫るの見て、彫刻を学び始めたそうだ。 。
2010年には家族と共にNHKBSの番組
 『プラネットベービーズ/タンザニア彫刻の民の子育て』に登場。
 2011年から、「マティアス・ナンポカにマコンデ彫刻を習う」という個人ツアーを始めた。マティアスの家に住み込んで、手取り足取り、黒檀を刻んでいくのだが、果たして何が出来上がるか?



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