ダルエスサラーム便り

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Habari za Dar es Salaam No.35


 

"Kukua kwa Mwamko wa Taifa"
― 書評「アフリカ人の覚醒」―


根本 利通(ねもととしみち)


 ダルエスサラームは暑い盛りが続き、大雨季の雨が待ち遠しい季節である。今回は書評と言うのはややおこがましい、本の紹介、読んだ感想をお届けしたい。

 川端正久著「アフリカ人の覚醒ータンガニーカ民族主義の形成」(法律文化社2002)である。著者はアフリカ現代政治史の第一人者であり、特にタンザニアと南アが専門である。本書のタンガニーカ(タンザニア)民族主義運動形成史は、いわば著者のライフワークと言っていい労作である。1980年代のダルエスサラーム大学図書館や、タンザニア古文書館の未整理状態を知っている身としては、第一次史料の検索に多大の労力を割かれたであろうことは想像に難くなく、その努力に敬意を表する。

  アフリカ人の覚醒 本書が取り扱っている時代は1920年~1954年である。つまり、第一次世界大戦が終わり、現在のタンザニア本土がドイツ領東アフリカから、国際連盟イギリス委任統治領タンガニーカに変わった年から、タンガニーカの独立を導いたTANU(タンガニーカ・アフリカ人民族同盟)が創立された年までである。この間の民族主義形成の草創期を第一次史料を駆使しながら解明し、「タンザニアの民族主義は遅れていた」という一般理解を否定し、またニエレレ(初代大統領)偉人伝説に挑戦し、他の指導者の存在を明らかにしながら、ニエレレの評価を相対化する試みである。

 その歴史の中で、アフリカ人諸組織(農民組合、商人組合、労働組合、互助組織)の形成と発展を追う。中でも焦点はTANUの前身であったTAA(タンガニーカ・アフリカ人協会)、そしてその前身であったAA(アフリカ人協会)、さらにその先駆的母体であったTTACSA(タンガニーカ地域アフリカ人公務員協会、1922年結成)の流れをを克明に追っている。筆者の検証に依れば1927年に結成されたと思われるAAの、そのダルエスサラーム、ドドマ、ザンジバルの3本部を中心とした動きをたどる中で、結成当時のメンバーにムスリムの人々が多かったことを描き出す。初期のメンバーは、ミッション教育を受けた公務員だけではなく、ダルエスサラームのマニエマやザラモやアスカリ(旧兵士)などの地元有力者が多かったことは興味深い。

 AAは1948年にTAAに移行するが、それは発展ではなくザンジバルAAの分離という組織的停滞の結果であり、その後1953年のニエレレの登場までの期間は、ダルエスサラームではなくムワンザを中心としたレーク支部のポール・ボマニたちがTAAの活動を支えた。その背景には綿花産地としてのムワンザの農業協同組合、労働運動の発展があり、そのスクマ同盟、あるいはキリマンジャロのチャガ同盟、ブコバのハヤ人同盟などの地方組織が活発に活動した。

 民族主義の形成という時に、「部族主義」を克服する必要があったという考えはもう不要だろう。本書の中でも、イギリスの「間接統治策」の過程でいかに「部族意識」が醸成されて行ったかが示されている。ただタンガニーカ人という意識がいつごろから芽生えたのか、あるいはそれを超えたアフリカ人という意識(パン・アフリカズム)がいつ頃から芽生えたかには興味がある。そういう意味で、タンガニーカ出身ではないウガンダ人のエリカ・フィアが「Kwetu」というスワヒリ語新聞で論陣を張ったこと、ジョージ・オギロなどのケニア人が初期の組織(港湾労働者、鉄道労働者、サイザル農園労働者など)で主要な役割を果たしたことは注目に値する。現在のタンザニア人で、両親はともかく、祖父母は他国から来たという若者は結構いる(老人にはもちろん本人が外国出身である)。

 TANU創設に活躍したアブドゥルワヒドとアリのサイキ兄弟の祖父は南アからやってきたアスカリであり、子供は現在のダルエスサラーム市長である。いったん公式のTANU党史から葬られたサイキ一族(Saykesなので今はサイクスと呼ばれている)が、再び表舞台に立ったのは、ニエレレの死と関係あるのだろうか?

    TANU第一回大会参加者
 本書のタイトルである「アフリカ人の覚醒」はバジル・デヴィッドソンの名著から採られたということで、日本のアフリカ現代研究の初期に一世を風靡したその本を懐かしく思い出す。ただ例えばかつて「よみがえるアフリカ」(日本貿易振興会1993)という本を手にした時に感じた違和感をやや覚えてしまう。つまりアフリカ、アフリカ人は死んでいた、眠っていたのか、そうだとしたらどうやって甦った、目覚めたのかということである。これは言葉尻の問題ではない。

 いつごろからタンガニーカ人意識が(少なくとも知識人層に)生まれ、独立運動につながっていったのか。ケニアのKAU(1944年結成)と比較して「タンザニアの民族運動は遅れていなかった」と結論付けるのだが、やや説得力が弱いように感じる。というのは私の持っている先入観のせいなのか、つまり「タンザニアはケニアと違って白人の入植も利権も少なかったから、解放闘争で血を流すことが少なく、独立も東アフリカではもっとも早く達成できた」と言う概念である。それは日常タンザニアの人が旧宗主国の人々に対する温厚な、一種崇拝の念を持って接しているのをまま見ると、日本人がかつてやった植民地支配とはどう違うのだろうと思う苛立ちの説明がつかないからである。

 タンガニーカ一般大衆に意識をもたらしたのは、「Kwetu」というスワヒリ語新聞、シャーバン・ロバートというスワヒリ語詩人、そしてキング・アフリカン・ライフルズとして第二次大戦にアジアに出征した帰還兵士たちの存在が大きいという。ただこの面に関して言えば、鶴田格氏の非常に興味深い研究が明らかにしているように、ダルエスサラームを含む都市部での音楽クラブ、スポーツクラブの活動を基盤とした大衆の活動・組織化が注目される。アリ・サイキはそういうクラブ面でも大立者であり、ニエレレ人気の大衆化に役立ったとされる。

 最後に付け加えれば、自分の知らない第一次史料が次々に現れ、新史実が明らかになると、次はどうなるのだろうとドキドキする。そのような内容なのに、文章がやや硬く一気に読み通すには困難を感じさせる。社会科学の学術書であるからやむを得ないとは思うものの、やはり自省を込めて残念な気がした。



追記:「アジア・アフリカ言語文化研究」55号(1998年3月発行)掲載の鶴田格「ダルエスサラームのアフリカ系住民社会における遊びと政治」、及び「アジア経済」第45巻第5号(2004年5月15日発行)に掲載された、吉田昌夫氏の書評を参考にさせていただいた。

     

(2005年3月1日)





ダルエスサラーム物価情報
(2005年3月)
US$1=Tsh1,113シリング
品目単位価格
バス1乗り150
新聞(朝刊英字紙)1部400
ガソリン1リットル960
1kg800
たまねぎ1kg500
砂糖1kg700
ウンガ1kg300
牛肉(ステーキ)1kg3,000
トレイ3,000
パン1斤300

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