ダルエスサラーム便り


タンザニアからの手紙Harufu ya KarafuuShwari

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Habari za Dar es Salaam No.84


 

"Emancipation without Abolition"
― 紹介 『廃止なき解放ードイツ領東アフリカ 1884~1914年』 ―


根本 利通(ねもととしみち)


 今回は、Jan-Georg Deutsch『Emancipation without Abolition in German East Africa, c.1884-1914』(Eastern African Studies, 2006)を紹介したい。タンザニアでの奴隷制廃止の話はほとんどザンジバルでのそれに集中していたから、エアポケットのようなテーマに惹かれた。

Emancipation without Abolition
 本書の構成は以下の通りである。
  第1章 ドイツ領東アフリカにおける「静かな革命」 
 第Ⅰ部 19世紀タンガニーカにおける奴隷制と奴隷貿易
  第2章 奴隷制と奴隷貿易の地理学
  第3章 奴隷の社会生活
 第Ⅱ部 奴隷制廃止せず:ドイツの植民地政策
  第4章 帝国の政治学
  第5章 行政の政治学
 第Ⅲ部 ドイツ植民地支配下における奴隷制の衰退
  第6章 植民地当局の介入
  第7章 社会的少数者との妥協
  第8章 結論

   著者はオックスフォード大学の講師(英連邦史)。ベルリンの近代オリエント研究センター在職中の調査に基づく。

 第1章では、19世紀末~20世紀初頭のドイツ領東アフリカには40万人を超える奴隷が存在していたことを記し、それが20年間に消滅したことを「静かな社会革命」と称する。これが本書の主題だろう。ザンジバルにおける奴隷制の廃止は1897年、ウガンダでは1900年、ケニアの海岸地方では1907年、モザンビークにおけるそれは1910年であるのに対し、タンガニーカ(現在のタンザニア本土)では1922年、つまりドイツ領東アフリカから、国際連盟委任統治領タンガニーカに代わってからやっとである。なぜこうなったのか?

  第2章では、19世紀特に後半のタンガニーカの奴隷制の成り立ちを追う。その中心にキャラバンルートを据え、ウニャムエジ(現在のタボラ州)と海岸地方(現在のタンガ、コースト、ダルエスサラーム、リンディ州)を考察する。19世紀に最盛期を迎えたタンザニアの奴隷貿易だが、大雑把に言って3つの輸出ルートがあった。北部ルートはキリマンジャロ以北(現在のケニア南部)からタンガ、パンガニに向かった。中央ルートはコンゴのカタンガ、マニエマ地方から、タンガニーカ湖の南部を迂回し、あるいはウジジからタボラで、ビクトリア湖方面(遠くは現在のウガンダ)から来るルートと合流し、バガモヨに向かった。南部ルートは、現在のマラウィ、モザンビーク北部からリンディ、キルワに向かった。それぞれのルートの最終目的地はザンジバルである。

 その中でも最大の交易量を誇ったのが中央ルートである。そしてその中継地点としての重要さを占めたのがタボラを中心とするウニャムエジ地方である。19世紀半ば、この地方は後にタンガニーカと呼ばれる範囲の中でも人口密度が高い地域だったと言う。その背景として農業的可能性も挙げているが、うかつには首肯できない。やはり長距離交易の利ではないか。ニャムエジの人々が交易したのは、塩、鉄、鍬、陶器、蜂蜜、穀物などの地方の産品と、ビーズ、綿布(メリケン)、銃、金属器(真鍮、銅線など)などだが、19世紀後半高価な輸出品として象牙そして奴隷の需要が増加していく。ウニャムエジ地方には、1840~50年代のフンディキラ(Fundikira)、1870~80年代のミランボ(Mirambo)、ニュングヤマウェ(Nyungu ya Mawe)、イシケ(Isike)といった強力な首長が出現し、社会構造が複層化していく中で奴隷が増えていった。

 一方、キャラバンルートの終着駅の手前である海岸地方には、奴隷労働に基づいた商業的農業が、19世紀後半、植民地支配の直前に繁栄していた。海岸地方はザンジバル(ウングジャ)島、ペンバ島、マフィア島に住み着いた外来のアラブ人などと原住の人々が混在して作り出した、スワヒリ語、イスラーム、都市というものを共通としたスワヒリ人意識、文化の影響を強く受けていた。北からタンガ、パンガニ、サダニ、バガモヨ、キルワ、リンディ、ミキンダニといったスワヒリ都市は、キャラバンが到着し、ザンジバルへ商品を送り出す港であり、またキャラバンやザンジバルという大都市を相手とした食糧生産を行っていた。その地域の支配層はオマーンが進出してくる以前から住み着いたアラブ系の人々であったり、あるいは箔付けのためにペルシアのシラージ起源で家系を彩ったりしていたが、共通のスワヒリ文化をもった地方の名望層(Waungwana)であった。地域によっては農業奴隷は人口の半数を超えていたらしい。 

 第3章では、第2章で考察したウニャムエジと海岸地方の奴隷の生活を検証する。奴隷とされる原因(手段)は4つ。暴力的なもの(襲撃、人攫いなど)、法的なもの(犯罪者)、経済的なもの(借金、飢饉など)と出生によるものである。第1の暴力的なものが大多数で、組織的な奴隷商人による襲撃、部族抗争の敗者の捕虜の売りつけ、小規模な人攫いである。第2の法的なものというのは、密通、呪術行為の罪、盗み、傷害、殺人などの代償である。第3の経済的理由というのは、債務のため一定期間小作人のように働き、債務が返済できなかったら奴隷として売られてしまったり、飢饉・家畜の疫病の際に、家長により売られてしまう例。第4の例は、特に海岸地方で、奴隷の両親から生まれた場合は、生まれながらにして奴隷の身分である。

 ウニャムエジ地方にもたらされる奴隷は、地域内からは極めて少なく、近接する地域、タンガニーカ湖の南東部、ビクトリア湖地方からはもちろん、遠くウガンダやコンゴのカタンガ、南部マニエマ地方からウジジ経由でやってきた。1890年、ドイツの植民地時代の初期の役人の推定に依れば、総人口35万人の内、3分の2は奴隷だと言う。ウニャムエジ地方の1890年における奴隷数が233,000人となっているのは、この曖昧な推定に基づく。この地域の奴隷は女性が多いのだが、専ら農村部の農業奴隷として使われ、一部家内奴隷もいた。さらにウニャムエジの繁栄を支えたキャラバン貿易のポーターとして、象牙などの輸出品を運んだ男の奴隷もいる。その間に小金を貯めてチャンスを生かした者、あるいは徴税人、メッセンジャー、兵士(ruga-ruga)などになっていった者もいる。また逃亡奴隷の村も近隣には存在した。

 海岸地方での奴隷の生活だが、タンガ、パンガニ、バガモヨ、ダルエスサラームといった北部海岸と、キルワ、リンディ、ミキンダニといった南部地方は多少状況が違うようだ。北部には中央キャラバンルートからの奴隷が主に到着し、南部海岸にはモザンビークやマラウィからのそれが主力であった。北部では男女比は同じくらいだったが、南部では女性の比率が高く、かつ1880年代のマフィア島やリンディの町では奴隷人口が総人口の過半数を占めたという。海岸地方ではイスラームが深く浸透しており、奴隷の所有者も、前述のWaungwanaあるいはWaswahiliと呼ばれた名望層であった。一方到着したばかりの奴隷は、言葉も文化も違ったわけで、Washamba(田舎者)、Washenzi(野蛮人)、Wajinga(愚か者)といった今日のスワヒリ語でも使われる蔑みの呼称をつけられた。また、海岸地方で2世として生まれた奴隷は、Wazaliaと呼ばれた。奴隷はサンダルを履いたり、キレンバ(ターバン)を巻いてはいけないなどの社会的な規制があった。多くの奴隷は、サトウキビ、ここやし、米などの農園で働いていたが、インド人貿易商に雇われ、Posho(手当)をもらって、ポーターやガイドをする者、あるいは港の人足、マングローヴの伐採、水運び、メッセンジャーといった非熟練肉体労働を日雇い(Kibarua)として行う者もでてきた。さらに半熟練・熟練した職人が現れる。船頭、漁師、猟師、水夫、裁縫師、靴作り、陶器作り、ハルワ作り、大工、船大工、レンガ作り、石工、行商人、兵士などなど様々である。この中では成功して自分で身請けをして、奴隷身分から解放される者も出てくるようになる。そしてスワヒリ社会に同化吸収されていく過程で、自由民層との社会的緊張が生まれたりするのである。

19世紀のキャラバンルート  第Ⅱ部では、ドイツの植民地政策を検証する。ドイツ帝国としての植民地支配は1889年から1914年までの25年間と筆者は区切っているが、その間ドイツ領東アフリカにおいて、奴隷制度は存続し、「私的な」奴隷売買は非合法ではなく、その取引に課税すらされていた。帝国議会では奴隷制廃止に向けた議論はなされていたが、植民地に対して帝国議会の権限は弱く、植民地総督は奴隷制廃止に極めて強硬な反対論者であったという。

 第4章では、ドイツ帝国議会内の論議を検証する。ドイツのビスマルクが1884/5年のアフリカ分割を巡るベルリン会議までは植民地進出に消極的であったことは知られるし、タンガニーカに対する支配は当初ドイツ東アフリカ会社(DOAG)のペータースによって行われた。しかし、1888年のアブシリの反乱をきっかけとして、ドイツ帝国が直接植民地支配を行うようになる(1889年~)。その大義名分として「アフリカにおける奴隷貿易の抑圧」が挙げられていたことは注目に値する。政府、拡張主義者、商業資本といった政府を支える保守勢力に、従来は政府と距離を置いていたカトリックなどの教会勢力が、「反イスラーム=反奴隷貿易、奴隷制」の名目で連合関係を結ぶことになる。ただ、1890年のブリュッセル協定に基づき、ドイツ帝国内でのドイツ臣民による奴隷貿易は1895年に禁止されたが、ドイツ領東アフリカにおける奴隷制は廃止されなかった。植民地総督は奴隷制の廃止の必要性は認めつつも、「急激な変化は社会不安を巻き起こす」と、つまり奴隷を所有する富裕層との妥協を図っており、カトリックの中央党も帝国議会でそういった論陣を張っていた。

 左派の社会民主党は、従来植民地支配そのものに批判的であったが、1895年ころから「非人道的な搾取である奴隷制度の廃止」を主張するようになる。政府、植民地当局、中央党の連合に、社会民主党の議案は常に少数派で議決では負けていたが、1905年12月31日以降に生まれる奴隷の子どもの自由を勝ち取る。また、社会民主党が議会において多数派になるに伴い、ドイツ領東アフリカにおける強制労働と奴隷労働の共通性を批判しつつ、1920年1月における奴隷制の廃止までこぎつけることになる。(第1次世界大戦の勃発により実現はしなかったが) 

 第5章では、ドイツ政府植民地局内の議論を検証する。ドイツ帝国内には、当初植民地省はなかったらしく、外務省の植民地局が統括していたようだ。その諮問機関として、1890年に設立された植民地理事会があり、1907年まで機能していた。20人(その後40人)の理事が年2~3回不定期に集まって、植民地政策を諮問する。植民地局長はメンバーであったが、それ以外は多様な人々の集まりであった。すなわち産業界から選出された利害を持つ会社(DOAGや汽船会社)代表、首相から指名された学者、政府役人、国会議員、植民地在住経験者、カトリック、プロテスタントの代表まで。

 この多様なメンバーで構成された植民地理事会が、植民地政策を提言する。そのいくつかの課題の内に、奴隷制があった。ドイツの市民法では奴隷制は違法である。しかし、東アフリカの有色民(アフリカ人、アラブ人、インド人、ゴア人、アフガン人、バニヤン人など)には適用されないという人種主義が有力であった。何回かの議論の後、ドイツのアフリカ植民地(トーゴ、カメルーン、東アフリカの3ヶ所で、南西アフリカは含まれていない)総督に、質問状を送り、意見を求めたりしている。その結果出たのが1901年の東アフリカの条例なのであるが、奴隷制の廃止は見送っている。東アフリカにおける奴隷制の存在を認めつつ、それは一種の「農奴制」だとしている。つまり、主人と奉公人のような関係に近い。また奴隷商人による売買は禁止されるべきだが、主人同士の私的な売買(移動)は禁止されるべきではないしている。借金の質として、他人、親戚あるいは自身を奴隷に売ったり、密通や債務のために法的に奴隷とされることは禁止されたが、奴隷制そのものは認められたのである。この背景として、植民地当局がAkidaやJumbeという呼称で、奴隷所有層を代官として政治的に必要としていたこと、またその富裕層の米、ココナツ、砂糖などの商業的農園を支えていたのは奴隷労働であること、またその富裕層を購買層としたドイツ商業資本の思惑もあったこと、さらに「アフリカ人は怠け者だから強制して働かせる必要がある」という信仰を、植民地の役人が持っていたことなどが挙げられている。

ドイツ領東アフリカの奴隷の減少
 第Ⅲ部では、奴隷制の衰退に触れる。世紀の転換期(1900年)における奴隷人口は推定40万人、全人口のおよそ10%であったとされる。それがタボラ(ウニャムエジ)では233,000人が70,000人へ、海岸地方(タンガ、パンガニ、バガモヨ、ダルエスサラーム、ルフィジ、キルワ、リンディ)では150,000人は50,000人へと減少し、1912年段階では全土で165,000人と人口の4%程度になった。それが植民地当局の努力なのか否か。

 第6章では植民地当局の積極的介入例を紹介する。植民地当局はまず奴隷の輸出を禁止した。次いで、襲撃や人攫いといった暴力的な奴隷化を禁止した。さらに、ゆっくりではあるが、非暴力的な奴隷化、つまり人を質に取ること、自分を奴隷として売ること、法的な処分、家長が親戚や子どもを売ることを禁止していった。最後に1906年以降に生まれた奴隷の子どもは自由人であることを宣言され、奴隷が増えることはなくなった。さらに当局は、存在している奴隷と主人の関係について、売買の監督、主従関係の権利と義務を統制しようとした。奴隷の売買の市場価格を設定し、その1.5%を課税したりした。最後に当局は「奴隷解放証明書」を発行した。1891~1912年の間に、51,632通の証明書が発行された。しかし重要なことは、ドイツ領東アフリカ植民地当局は奴隷貿易は禁止したものの、奴隷制の存続は容認し、かつ個々の事例への対応、法の適用はそれぞれの地域の役人の裁量に任された部分が大きいと言うことである。奴隷制に対する「公的な政策がない」ことは、ある意味ではドイツ国内の野党や国際的な批判をかわすのに有利だったことすらある。

 さて、奴隷解放証明書の分析から、過程が浮かび上がってくる。解放証明書からは4種類の解放過程が見える。(1)身請け、(2)所有者による解放、(3)役所による解放、(4)その他である。この著者の分類に依れば(1)38%(2)34%(3)24%(4)4%となっている。(1)はヨーロッパ人(多くはドイツ人)の農園主が農業労働者の必要のため、奴隷所有者から奴隷を借り受ける(所有者は奴隷を”派遣”してその給与の半額から3分の2を巻き上げる)のだが、自家労働者としたい場合、ヨーロッパ人は奴隷の所有を禁止されていたから、奴隷の所有者に奴隷の代金を払い「身請け」する形で、奴隷を労働者として移籍し、数ヶ月~2年くらいの労働で債務を払い終わると、元奴隷は自由になるという例などである。もちろん、カトリック教会のような第三者が身請けしたり、少数だが自分で貯めた金で身請けした例もある。(2)はタンガ、パンガニ、キルワ、リンディなどの海岸部のムスリムの所有者が、宗教的な徳を示す行為として、あるいはドイツの役人に対する政治的な理由から行われた場合が多いとしている。(3)は禁止されている奴隷貿易商人の奴隷が捕獲されたり、あるいは奴隷が逃亡して他州に逃げ込み、ドイツの行政当局によって解放される例である。(4)は所有者の死亡によりとか、あるいは1890年代にドイツの植民地支配に抵抗した地方の首長などの奴隷が懲罰的に解放された例がある。総じて植民地当局は奴隷貿易の撲滅には効果を発揮したが、奴隷制度の撤廃、あるいは奴隷の生活改善には消極的な関与しかしなかったと言える。この間の奴隷解放証明書で、植民地当局の主導と思われるのは4分の1に過ぎない。

 第7章では、奴隷自らの解放への運動を検証する。解放への動きは、地域、性別、職種によっては一様ではなかったが。まず北部海岸地方(タンガ、パンガニ、バガモヨ)では、ドイツ人によって始められたプランテーションは慢性的な労働力不足に悩むことになる。この地域は植民地化以前から奴隷労働による農業生産が一般的で、自由民は賃金労働を好まず、”派遣”された奴隷は契約完了前に逃亡することが多く、奴隷所有者にとってもドイツ人農園主にとっても、「奴隷の派遣契約」は危険の多い取引だった。従って、ドイツ人農園主に依る奴隷の身請け契約が始まり、奴隷にとってドイツ人農園での労働が条件的に魅力的であったわけはないのだが、奴隷労働から賃金労働を目指した逃亡奴隷の流入やそのエージェントも生まれ、1900年ころには5,000人ほどと推定された農園労働者数が、1912ー13年には92,000人と推定されるまでに伸びた。農園と限らず、タンガやダルエスサラームなどの港町ではポーターとしての需要があり、賃金もこの間(1890年ー1912年)に月6ルピーから12ルピーへ倍増している。1890年代、ダルエスサラームはマニエマの町と言われたように、2万人ほどの人口(1901年)のかなりの部分は、自由民と称する元逃亡奴隷だったと思われる。専ら賃金労働者は男性が多く、女性の奴隷は農園にとどまった例が多いが、それでも都市へ出てきて、酒醸造、食品販売、売春という賃金収入を得るものも出てきた。さらに1900年代に入り、植民地当局が、家屋税、更に人頭税の導入と、その未納者に対する強制労働を始めたことにより、内陸地方から海岸地方への出稼ぎは急増し、サイザル農園、鉄道建設現場、役所、教会などを含め、1913年の段階で172,000人が賃金労働に従事しており、それは当時のアフリカ人労働人口の約20%に相当したという。その時期の奴隷人口の推定(165,000人)とほぼ同じ数字である。

 さらに内陸部の例としてタボラ地方を検証する。タボラ(ウニャムエジ)は1900年段階で推定233,000人という最大の奴隷人口を擁していた。それが1912年には70,000人前後と大幅に減少する。注目すべきことは、タボラで発行された奴隷解放証明書は、1893~1912年の間で3,276しかなかったということである。つまり大多数はどこかに消えてしまったのである。どこに消えたのか?タンガ州のプランテーションに、徴募されてニャムエジ人の集団入植の記録がある。また、1905年、ダルエスサラームの人口23,000の内、4分の1はニャムエジ人だという推定もある。植民地支配の当初、スーダン人が構成していたドイツの傭兵から、新しい軍隊の大半はニャムエジ人が担ったと言う。そういったニャムエジ人の幾分か、あるいは多くは奴隷出身だったと思われる。つまりニャムエジという民族が存在していたのではなく、中央キャラバンルートで到達した人々をニャムエジと称したのではないか。タンザニア中央鉄道が1907年モロゴロに達し、1912年タボラ、1914年キゴマに到達するが、その間の建設作業の雇用は大きな数字に達した。女性も賃金労働に参加した。何よりも鉄道の開通は、キャラバン貿易の需要を決定的になくしてしまったので、ポーターたちは代替の収入が必要だった。それだけの多くの労働力を自由民だけでまかなえたはずはなく、首長、村長、家長たちの臣下にたいする統制力が確実に衰えていったのだと思われる。

 第8章(結論)として、筆者はこうまとめる。タンガニーカにおける奴隷制の衰退は、奴隷の所有者と奴隷との長い間の闘争の、奴隷たちによって限られた選択肢と機会を最大に掴もうとした結果である。西アフリカなどのフランス、イギリスの植民地では奴隷の解放、そしてその後土地に縛り付けようとする法の導入などが行われた。ドイツ領東アフリカにおいては、奴隷制が合法であったがゆえに、違った展開を辿った。若い男性を中心として、逃亡、賃金季節労働者を経て、小農、職人、都市住民になる者が出る一方、農園に残った女性主体の奴隷たちは所有者との保護従属関係を、次第に緩やかな一族あるいはパトロン顧客関係に移行し、多数の奴隷人口が、比較的スムースに自由民口に吸収された。「静かなる社会革命」と筆者は称している。

 タンザニアにおける奴隷貿易、及び奴隷制の歴史記述は、従来はステレオタイプのものが多かった。つまり、残虐なアラブ人、イスラームによる奴隷貿易と、それに対し「人道的、文明開化」の使命に燃えたキリスト教伝道師とイギリス海軍による取締りが、多くの無辜の奴隷たちを救ったというものだ。ザンジバルの旧奴隷市場跡に立てられた英国国教会の聖堂の庭に行くと、その宣伝のためのレリーフがで~んと座っている。バガモヨのカトリック教会の博物館にも似たような展示がある。この本はその「ヨーロッパ人によるアフリカ人文明化の使命」の呪縛からは自由なように見える。

 さて、100年後の今、ダルエスサラームやバガモヨといったタンザニア本土の海岸地方、あるいはウジジといった内陸部の古い町(タボラは残念ながらよく知らない)、あるいはザンジバル(ウングジャ島、ペンバ島)で奴隷制の残滓が見られるかというと、少なくとも表面上には見られない。色のかなり黒い人、アラブ系の面立ちをはっきり残した人、そして圧倒的に多数のその中間である混血の人々を抱えたザンジバルではかなり微妙なものだろう。例えばタアラブの女王と謳われるビ・キドゥデが、一方でアフリカ人の成女儀礼であるウニャゴを司るわけで、吸収されていった奴隷人口の一方でのアイデンティティーの在り処を思ってしまう。ダルエスサラームのような大都会では、かつてあったニャムエジやマニエマの居住区が曖昧になり、人々の記憶から薄れていくに連れ、私のような外来者には見えなくなってしまっている。果たしてこのまま忘却の彼方に送ることがいいのか、時々(選挙の毎に?)にかき立てられるアフリカ人のナショナリズムに触れると、ふっと思うことがある。

(2009年4月1日)





ダルエスサラーム物価情報
(2009年4月)
US$1=Tsh1,338シリング
品目単位価格
バス1乗り300~400
新聞(朝刊英字紙)1部500
ガソリン1リットル1,250
1kg1,200
たまねぎ1kg1,200
砂糖1kg1.200
ウンガ1kg750
牛肉(ステーキ)1kg6,000
トレイ5,500
パン1斤800

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