読書ノート




読書ノート No.120


 

伊谷純一郎『大旱魃』


根本 利通(ねもととしみち)


 伊谷純一郎著『大旱魃―トゥルカナ日記』(新潮選書、1982年刊、800円)。
  

『大旱魃』
 本書の目次は次のようになっている。
    プロローグ
  Ⅰ. 飢餓の原野
  Ⅱ. ラポー
  Ⅲ. 雨
  Ⅳ. 牛牧
  Ⅴ. アウイ・ナポロンにて
  Ⅵ. エピローグ
  あとがき

 本書はたまたま人からいただいたもので、毎晩睡眠薬代わりに少しずつ読もうと思っていたのだが、相変わらずの名文に引きこまれるように読了してしまい、ほかの関連図書を読み合わすことになった。関連図書というのはトゥルカナ関係の伊谷純一郎と太田至の文章であり、1978~82年ころの調査がメインだが、最初の1978年の時の調査の記録(伊谷『トゥルカナの自然誌』、太田『トゥルカナ族の互酬性』)が入手できず、消化不良のままである。伊谷の著作は巨人であることと人類学と距離を置きたいということが相まって、なかなか自分で購入して読むということが少なく、他人からもらった本を読むことが多い。考えると『サル・ヒト・アフリカ』もそうだったし、申し訳ない気もする。

 プロローグでは単なる「まえがき」にとどまらず、本書の執筆意図と暫定的な結論を明らかにしてしまう。つまり1978年の第1回調査の記憶と今回の大旱魃の真っただ中のトゥルカナ・ランドを重ね合わせるのである。「トゥルカナ・ランドは人間の生活の場として極限的な環境であった。生業の形態、無駄のなさ、呵責ない個性も環境へのぎりぎりの適応の形態だった。トゥルカナは開拓者ではなく自然主義者であり、自然の異変に対し…抵抗力をほとんど持ち合わせない」。そして本書の執筆意図を「アフリカの乾燥地帯が内包する宿命的な痼疾との出会い。…人びとと共に乾いた大地を見つめ無情な天を仰いだ唯一の人類学者としての義務」(P.11~12)と述べている。

 1980年8月5日伊谷と太田はトゥルカナ・ランドに入った。旱魃のことは日本でもニュースになっていた。目指すカクマに近づくと乾燥がひどくなり、カクマの町は人口1,000人くらいの小さな町だったのが、難民が押し寄せ1万人くらいに膨れ上がっていた。コレラの流行、ウガンダやスーダンの遊牧民の襲撃・家畜略奪の話を聞く。訪ねようとする家族の家長もそこの病院に入院していた。しかし、その家族のアウイ(世帯の集合住居)にたどりつくと懐かしい顔が迎えてくれる。アウイの中に入らずに、そのそばにテントを張ることにする。これがアウイの人びとやそれ以外の人びととの距離を微妙なものとした。家畜(羊、山羊、驢馬、牛、駱駝)の数の激減(60人の世帯に対して600頭以上)、その乳がほとんど搾れないことによる子どもたちの栄養失調、川が干上がり泥水利用のための病気が語られる。

 2年前は300頭の牛群を率い、堂々としていた原野の牧人が食事をたかりに来る。著者たちはカクマのソマリ人の店でトウモロコシ、ミルク、砂糖、飴などを購入し、子どもたち中心に配るが、幼児から死者が出だす。トゥルカナの歴史上、かつてない苛酷な旱魃というが、過去の旱魃が1914年、52年、70年、72年と近年になって間隔が狭まっていることを知る。著者たちはアウイの人たちへの施薬に追われながら、放牧の実態や植物の利用などの調査を始める。そのなかで名果エメヤンを知る。生き延びるために家畜を選択して屠殺し、家族・知人に分配するのだが、その様子から「トゥルカナは平等主義者ではなく、むしろ徹底した個人主義者だ。…複雑な人間関係が食物の分配に投影する」(P.69)と観察する(以上Ⅰ.)。


トゥルカナをめぐる民族分布

 入院していたアウイの家長ラポーが戻ってきた。やはり家長が戻るとアウイが安定するように見える。著者たちは山羊の個体識別、鳥・植物などの観察、トゥルカナの認識、埋葬などの調査に入る。15歳の少年の植物に対する知識に驚かされる。 しかし、日常は用意した食事の2割くらいしか自分の口の入らず、牧童、居候、来客、子どもたちから「バド(まだ食べていない)」「アコロ(腹がへった)」「ナキナイ・エポチョ(粉をちょうだい)」「ナキナイ・アキムジ(食物をちょうだい)」を聞かされる毎日で、それが空虚でおざなりの挨拶に聞こえるようになり、「アラカラ(ありがとう」)と聞くと長く忘れていた言葉と感じるようになった。ラポーが再入院する羽目になり、その際に接した病院のボランティアとのやりとりで「飢餓の実態と慈善事業との間の空々しい咬みあわないものを感じる」(P.99)。(Ⅱ.)

 8月21日に近所で結婚式がある。「飢饉の最中を選んで多大な出費を要する結婚式をあげるのはいったいどういうことなのか。家畜が死のうと人が飢えようと、トゥルカナはトゥルカナであり続けなければならないということか」(P.115)と思いながら参列する。婚資は山羊2頭、羊2頭と17頭の牛だったという。その流れでカクマの町へ出る。「カクマの難民集落は日本の戦後の闇市と変わらない。…家畜を失ったトゥルカナたちは、初めて手がける商いに誇りさえ感じているように見える。救援物資が人の手から人に渡ることによって利潤を生んでいる。…難民集落で闇商売を経験したトゥルカナの男は牧畜生活に戻ることができるのだろうか」(P.121~3)と問う。このころから伊谷と太田のトゥルカナへの接し方に相違がでてきた。トゥルカナ流不平等主義に徹しようとする太田と、それでは弱い者から死んでゆくことになると思う伊谷。それでも「マム(ないよ)」「アワウンドリ(いやだ)」を連発する。8月24日、雨が落ちてくる。ロッカウオと牛牧のアボールに出かける。(Ⅲ.)。

 8月28日にラポーが退院し、駱駝を屠殺し、夜を徹して食べたアウイの人たちは、1人当たり4~5㎏食べたろうという。その翌朝、人びとはロレンヘ向かう。15家族1,000頭以上の牛の群れ。ロレンからウガンダ国境にかけては7月のドドスの襲撃で、廃墟、無人の野になっている。11丁の小銃を持った19人の男たちがパトロールしている。国境付近の状況を偵察して3泊仮のアウイに泊まった後、山越えの道を上りだす。伊谷・太田の車は登れない険峻な山道だ。山越えの安全を祈って石を積む。9月1日朝、家財道具を驢馬に積み、未練を残さずドライに撤収して旅立つ(エウォジット)。「カぺ(さようなら)、イタニ」。伊谷と太田は調査について論じ合う。「どこまで彼らの生活の中に融け込むことができ、あの生命力と、簡潔で無駄のない生活と、一切の感傷を断ち切った生き方をどこまで自分たちのもののすることができ、そしてそれをどこまで記載してゆくことだできるか」(P.170)だとし、若い太田に期待するしかないとなった。(Ⅳ.)

 9月2日の朝はアウイ・ナポロンで目覚める。ロッカウオから送られた去勢山羊を屠り、太田27歳の誕生日を祝う。肉を目指して多くの人が集まるが、トゥルカナは平等主義者ではないと改めて思う。キャンプでものをいうのは友人関係で、食物の流れを保証する。9月6日、モロコシについて夜警のルペイヨックが58品種をあげて、伊谷はびっくりする。「これほどまで牧畜に依存しているトゥルカナの、その生業の上からいえば微々たる存在に過ぎないモロコシ栽培…唯一の農作物にかける執念のようなものの表われ」(P.193)と感じる。伊谷は「俗物中の俗物ペイヨックの最大そして最後の贈り物」と感じた。翌日は伊谷たちの旅立ちである。しかし、その午後、そのルペイヨックに太田が600シリングを盗まれる事件が発生する。証拠が見つからずチーフあるいは警察に突き出さずに解雇で済ませるのだが、「浅墓で、貪欲で、狡猾で、トゥルカナの誇りを失った俗物中の俗物、そのすがるような灰色の目を見ているのは悲しかった。…その目はスカヴェンジャー(腐肉食い)の目だと思ったことがあった」(P.201)とつぶやく。翌朝ルペイヨックは残りの給料を要求する。旅立った伊谷は、ロティピキ平原にまん中にとどまっている人びとは、よほど自信があるのだろうと感じた。(Ⅴ.)


乾いた大地と山羊の群れ

 エピローグでは「駱駝を食べてしまった人びと」と題して語りだす。伊谷に滞在1か月余りで、16頭が食用や供犠、あるいは売却によって減らされた、それを「利子に頼れず、元金に手を出す」状態と評した。しかし、平等主義ではないトゥルカナで、分配には年齢・性比で差があり、1年間で幼児6人が亡くなったという。周囲では最も裕福な世帯においてすら、それだけの犠牲を払ったのだ。2年前の世帯の保有家畜数と現在のそれを比べ、歩留まり率を羊7%、駱駝42%、山羊54%、牛70%とはじき出し、トゥルカナが牛を必死になって守ったことを示す。トゥルカナから見れば東方に居住するレンディーレ、ガブラ、ソマリのように駱駝重点主義であったのならと悔やむ。「荒野の果てで自由に暮らしている人びとを、うらやましいと思うし、その生きざまを美しいと思う。…彼らは歴史の流れからあまりに遠く置き去りにされてしまっている」(P.215~6)と最後に吐き出している。

 トゥルカナの話に最初に触れたのはいつかは定かではないが、太田(1987)の「ニペ」の話は強烈な印象として残っている。なんちゅう奴らがいるんや!という感想だった。太田は「ニペ」を「ギブ・ミー」としているが、それは本書で出てくる「ナキナイ」に相当するのだろう。日本人のウェットな感傷とは遠く離れたドライさ、図々しさ。それは半乾燥地帯の牧畜民特有のものなのか。マサイを「孤高の民」と崇める見方があるが、牧畜民、特に遊牧の民には近寄らない方がいいと思って、長い間距離を置いていた。タンザニアの農耕民、都市の人たちの人懐こさ、優しさに慣れた感性からするとと、北部ケニア~南部エチオピア~南スーダン~北部ウガンダの地域で頻発する遊牧民の略奪は彼岸のように見えていたのである。

 今回、本書を読んで、トゥルカナの伊谷、太田のこの調査の前後の記録が断片的にしか入らず、その周辺のレンディーレ、ガブラ、サンブルなどの遊牧民調査の記録も多少は参照したがやはり不十分なので、もっぱらこの時期の伊谷や太田の観察を基に感想を記したいと思う。

 まずトゥルカナがけっして生粋の牧畜民ではなく、農耕もするし、狩猟や採集もするという万屋的な生き方を基本にしてきた人びとだったろうということは、いろいろなところで記されている。その根拠となる動植物への深い関心、詳細な認知から、その文化の底辺には先祖の記憶が刻み込まれているトゥルカナを優れたナチュラリストと呼ぶ。また、同じ地域の牧畜民であるソマリ人が開発型であるのに対し、トゥルカナ人は自然埋没型という風に分類している。伊谷が自然埋没型と分類したのは西部タンザニアのタンガニーカ湖畔のミオンボ林の焼畑農耕民トングウェ、東部コンゴの熱帯雨林の狩猟採集民ムブティ・ピグミーと半乾燥地帯のこのトゥルカナである(伊谷1990)。


結婚式での山羊の解体

  「われわれの社会と彼らの社会の間の共通性を認め、それを彼らの社会の理解の基盤にすえること」が人類学の基本的姿勢だとしたら、伊谷門下生の研究者はどういう接し方をアフリカの人たちに対してとったのだろう。伊谷が人類進化論講座を開設して教授に就任したのが1981年であり、トゥルカナ調査の真っ最中であった。チンパンジーからトングウェ、ムブティ・ピグミーなどの研究を経て、当時50代の働き盛りで、サル屋、ヒト屋の門下生を育てていたころである。そのころ伊谷と一緒にフィールド調査をするという幸運に恵まれた太田は「不平等主義のごりごりの個人主義者」になれたのか?

 太田はその論文(1996)の冒頭に次のように記している。「トゥルカナと一緒に生活していると、自分の持ち物は、『はたして本当に自分のモノなのか』という奇妙な気分に襲われることがある」(P.176)と。これはトゥルカナの「ナキナイ攻勢」のなかで暮らし、本書のあとがきで伊谷がいう「あの執拗にして完結することのない物乞いの本質が、いまもって理解できない」ということと同じだろう。太田は時の経過とともにトゥルカナの行為の様式を不器用ながら身につけていき、平然と「ない!」と断る作法を覚える。それは西欧近代とはいわないが、戦後日本の平等主義とは遠く離れたもので、伊谷が悩んだ部分だろう。太田は「再現が可能で標準化できるような行為の様式」を追い求める誤りを犯していたためと自らを総括し、その標準化をトゥルカナはもっとも強く拒否するという(P.212~3)。トゥルカナは「共同体原理」のもとで生きているが、母子、兄弟の間でも牛の所有権をめぐる対立は起こっている。

 エピローグで触れられた「歴史の流れから取り残されている」ということについては、「文明化に逆らう人々」という表現も使われている。1982年の第3回目の調査の後に、1950年代~1980年にかけてのケニアの内戦、独立などの事件の30年間がトゥルカナの暮らしにほとんど影響を与えなかったと述べ、さらにこう記している。「トゥルカナの社会もついに変わるべきときがきた…それは旱魃の直接の打撃によるものではなく、ケニア政府が1979年に制定した義務教育によるものだったのである」と。「貧乏人の家」と呼ばれる密集集落が作られ、学校に通う少年少女が制服を身に着け、スワヒリ語や英語で話すのを、学校に行かない素っ裸の牧童たちが羨望を持って眺めるということになったという(伊谷1988)。

 本書の中で「私はケニヤ人の一人として、トゥルカナが私たちと同じケニヤ人だとは思いたくない」という若きケニア人学究の言葉を紹介している。これはマウマウ戦争を戦い、独立を血で購い、その後のケニアの国家を主導したギクユ人の言葉だろうか。それに対して伊谷は「まさにトゥルカナは部族意識にのみ固執する人びとだった」と応えている。その後のケニアという国の歴史を見ていると西欧近代型の国民国家の建設に成功したとはいいがたい。逆にケニアとは違う西欧とは少し距離を置いた国家建設を目指したタンザニアの方が「タンザニア国民意識」形成には成功している。ウガンダやエチオピア、ソマリア、南スーダン、コンゴ(民)は…と思ってしまう。もちろん、西欧型あるいは日本の明治国家のような国民国家を無前提で歴史の流れとしているわけではない。

 伊谷たちは本書に描かれている大旱魃を契機に、トゥルカナの自然主義が崩れていく流れを見ている。それは学校教育制度の浸透やケニアという近代国家が牧畜民を統合しようとする過程であったのだろう。西洋近代社会が生み出した国民国家としてケニアを形成しようとすると、非合理・不整合が起こり、その結果として従来の民族間の略奪では済まない大規模な紛争が続き、難民キャンプというものが生まれてしまう。太田たちの弟子の世代はその状況のなかで人類学的な調査を試みようとすると「紛争と共生」とか「潜在力」という大きなテーマに悩まされることになる。私はトゥルカナの風土もその現在も知らないので、うかつなことは言えないのだが、まずそこに住む人と平らに付き合い、「潜在力」というものを短急的に探し求めるのではなく、歴史的な流れ・背景を振り返ってみることが必要だと思っている。


☆地図・写真は本書の中から


☆参照文献:
 ・伊谷純一郎「旅立ち」(『サル・ヒト・アフリカー私の履歴書』、日本経済新聞社、1991年)
 ・伊谷純一郎「子どもたちと鳥の世界」(1988)「赤道アフリカの自然主義者たち」(1990)「旱魃の生態」(1981)
  (『原野と森の思考-フィールド人類学への誘い』、岩波書店、2006年)
 ・太田至「規則と折衝」(田中二郎ほか編『続・自然社会の人類学』(アカデミア出版会、1996年)
 ・太田至「二ぺ(ギブ・ミー)」「家畜を守る戦い」「ミルクは力の源泉」「あいさつ」
  (米山俊直編『アフリカ人間読本』、河出書房新社、1987年)
 ・太田至「アフリカのローカルな会合における「語る力」「聞く力」「交渉する力」―トゥルカナの婚資交渉」
  (松田素二、平野美佐編『紛争をおさめる文化』(京都大学学術出版会、2016年)

(2017年1月1日)






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