読書ノート




読書ノート No.35


 

石原保徳『大航海者たちの世紀』


根本 利通(ねもととしみち)


 石原保徳『大航海者たちの世紀ーThe Epoch of Great Voyagers』(評論社、2005年2月刊、2,600円) 

『大航海者たちの世紀』
 本書の目次は以下のようになっている。

第Ⅰ部 大航海者たちの軌跡を追う
 第1章 新しい世界周航のはじまり
 第2章 「南半球」の発見
 第3章 地球の発見へ
第Ⅱ部 「哲学的」航海記の誕生
 第1章 向かい合う二人の若者
 第2章 「世界の一市民」として
 第3章 験される「啓蒙的」航海者たち
 第4章 ヨーロッパ文明至上主義との訣別
第Ⅲ部 架空旅行記の挑戦
 第1章 世界諸国遍歴者ガリヴァーの登場
 第2章 架空旅行記作家ディドロの新たな試み

 最初、この本を手に取った時は、いわゆる「大航海時代」、つまり、コロンとかヴァスコ・ダ・ガマたちが先陣を切った15世紀末~16世紀の時代を描いたものだと思っていた。著者はラス・カサスの注釈者として名高いし、16世紀南米がメインの舞台だろうと思い込んでいた。しかし、本書の時代は18世紀後半、主要登場人物はクックを始めとする英国人およびフランス人の航海者たちである。

 本書は、ある私立大学で数年続いた「西洋的世界史像の見直し」という題目の授業の成果である。そのキーワードは「コンキスタ」であり、15世紀末から始まったそれは、今なお担い手は変わっても続いており、そのゆき着く果てには、全人類を巻き込んだ破壊が待っている、というのが基本認識である。

 第Ⅰ部では、18世紀の後半に南太平洋を探検した大航海者たちの軌跡を追う。それを3つのステージに分けている。第1ステージは、バイロン、ウォリス、カートレット、そしてクックの第1回航海(1768~71年)で、南太平洋にあるとされた「南方大陸」を発見するという英国海軍の訓令に基づく。第2ステージはクックの第2回航海である(1772~75年)。クックは、依然幻である「南方大陸」発見の訓令をもらっているが、第1ステージで「発見」された南太平洋の島々をさらに「発見」するという個人の意欲も併せ持っていた。既に知られていたタヒチ、トンガなどの島々以外に、さらに多くの島々を「発見」し、地図上の空白を埋めていく作業である。クックは、人間の住める南方大陸はないことを確認した後、南太平洋を周回し、執拗な探索を行った。

 第3ステージは、クックの第3回航海(1776~80年)と、ラ・ペルーズというのフランス人の航海(1785~88年)を取り上げる。彼らは残された北太平洋の探索をするのだが、その前後に南太平洋を訪れている。クックは1779年ハワイ諸島で住民に殺される。ラ・ペルーズはフランス革命直前の国王の訓令を受けて、太平洋を縦横に動き、宗谷海峡を通過している。サモア諸島で僚船の一行の殺害事件を受け、「善き野蛮人」と誤解する書斎派に厳しい批判の書簡を残した。その彼らもニュージーランドから出発して、消息は絶えた。

 第Ⅱ部ではクックの2回目の航海に同行したゲオルゲ・フォルスター(1754~94年)という若者を取り上げる。ゲオルゲはドイツ人。父が植物・博物学者で、クックの第2回航海に調査のために乗り組んだ際に、その助手として、弱冠18歳で同行した。父の動植物の調査を手伝う傍ら、自身の興味である人間(住民)の観察・交流に向かう。そして、クックたち海軍の一行とは違った感想、批判的な観点を持つようになる。

 著者は、ゲオルゲがニュージーランドで遭遇した「人肉食事件」に注目する。1773年11月クックの一行が、戦いで殺されたと思われる若者の肉の一部を削って、あぶり、それを島民に差し出すという実験をした。クックは冷静な観察者として、周囲の人の反応を書き留める。しかし、同じく立ち会ったゲオルゲはまったく違った記録を残した。タヒチから乗船していたマヒネという17歳の少年は、激しく拒否し、涙を流したという。ゲオルゲはそのマヒネの心の中を覗こうとする。それはゲオルゲが同じ人間としてマヒネと交流をもったことから生まれた。ゲオルゲは南太平洋の島々の人びとの「他人をもてなす精神」を感じている。

ゲオルゲ・フォレスター
マヒネ

























 ニューヘブリデス諸島タンナ島での事件にも触れる。1774年8月に起こったその事件は、水飲み場を確保しようとした水兵によって島民が殺された事件だ。この事件も、クックたち「啓蒙的航海者」が島の住民にとっては単なる侵略者に過ぎなかったことを示している。つまり、「卓越したわが文明」の光を未開と野蛮の人びとに届けると称する人たちの独善性、自己省察のなさ、加害責任を浮き彫りにする。

 ゲオルゲはタヒチでもタンナでも行く先の島々の多様性に注目しながら、島民たちの豊かな想像力、人間性に惹かれていく。ゲオルゲは未知の島、動植物の発見よりも、新しい人間の「発見」をしたのだ。「卓越せるわが文明」という幻想にとらわれず、島民たちの相互交流による文明化の途を未来に見ようとした。ヨーロッパ文明至上主義に決別した「世界の一市民」としてのゲオルゲの姿勢があると著者は評価する。

 第Ⅲ部では、架空旅行記2作に触れる。ジョナサン・スウィフト著『ガリヴァー旅行記』(1726年刊行)と、ディドロ著『ブーガンヴィル航海記補遺』(1796年刊行)である。

 『ガリヴァー旅行記』は、先行して(1697年)発刊され、大評判を博したダンピア著『最新世界周航記』を意識している。このダンピアの著書は実録に徹しており、動物・植物だけでなくその土地の住民(人間)も冷静な観察の対象となっている。一方、ガリヴァーが旅するのは見知らぬ未開・野蛮な国ではなく、文明国となっていることに注目する。

 ガリヴァーは小人の国、巨人の国を旅することによって、自分を客体化することを学ぶ。さらに過去との対話を試みる。最後にフウイヌム国にいたり、原ヤフーの存在を知り、文明ヤフーとしての自分が危険な存在としてフウイヌム国から追放されてしまうことを体験する。文明ヤフーの代表として世界の中心にいるイングランドヤフーに対する厳しい省察で終わる。その先にある世界の植民地化を見通す。

 フランス人航海者ブーガンヴィルがタヒチ島に立ち寄ったのは1768年4月のことで、英国人ウォリスのタヒチ「発見」の10ヶ月後である。その記録は『世界周航記』(1771年刊行)という書物にまとめられている。その中で、ブーガンヴィルは書斎派の哲学者を批判している。いわく、「うす暗い書斎のなかで、世界とその住民に関する高遠な哲学を繰り広げ、否応ない調子で、自分たちの想像に自然を服従させている」(P.239)と。彼は自らが観察したものに忠実であろうとした。

このブーガンヴィルの実録に対して、『補遺』という架空の記録を出すという発想がなかなかすごい。ディドロはその『世界周航記』に対し、「読者が楽しませるどころか、彼らが耳をふさぎ、目を覆いたくなるような現実は、実録からは削除され、真実は隠されたままになるものだ」(P.233)という。そして『補遺』の最後にフランスの文明人とタヒチの野生人との対話を描く。そして「道理に合わない法律に対してはそれが改められるまで反対し続けましょう」という提言で終わるという。

『ガリヴァー旅行記』
 上記で、ほぼ著者の問題意識は紹介できたと思うので、詳しくは本書を読んでいただいた方がいいかと思うが、自分なりの感想をつけたい。その中で、私の誤読があれば、明らかになるだろうと思う。

 クックたち「啓蒙的航海者」はヨーロッパ人のコンキスタの正統だったろうし、英帝国主義の先駆けだったろう。ここで私の興味はゲオルゲ・フォルスターのことで、その40年の人生を調べてみた。その波乱に富んだ人生には目をむく。『世界周航記』出版後は、ドイツの大学で自然史、博物学の教授をやっていた。1792年フランス革命軍がドイツのマインツを占領すると、それに馳せ参じ、マインツ共和国の主要メンバーとなる。反革命軍にマインツが奪還された時に、パリに滞在中でそのまま亡命を余儀なくされ、パリで病没した。(詳細な伝記が出ており、その邦訳も出ているがまだ入手していない)。

 ディドロの『補遺』に関しては、フランス革命を理論的に準備した啓蒙思想の流れを汲むというのはわかる。しかし、モンテスキューやルソーといった先人が人種差別の理論的基礎を築いたことと啓蒙思想の限界を指摘するという作業には、まだ準備が不十分だと認めておきたい。

 『ガリヴァー旅行記』が本来は少年少女物語ではなく、大人向きの諷刺の書物であるということは、知識としては持っていたが、読んだことはなかった。今回を契機として読んでみた。そんなに面白くすらすらと読み進む本ではなかった。スウィフトの生年は1667~1745年であり、アイルランド生まれのイングランド人国教徒という植民者の立場であった。

 ガリヴァーが旅行するのは1699~1715年。ただし、その間3回は帰国している。そのため、旅行記は4編に分かれている。第1編「リリパット国渡航記」(小人の国)、第2編「ブロブディンナグ国渡航記」(巨人の国)、第3編「ラピュータ渡航記など」(空飛ぶ島の国など)、第4編「フウイヌム国渡航記」(馬人の国)である。この順番の逆転はありえず、かつ飛ばし読みも許されないようだ。

 スウィフトの出自およびその経歴(アイルランドにおける英国国教会の司祭)を見ると、当時のイングランド人のあり方に対する厳しい自己対象化、反省、批判があったとは思えないというのが正直な先入観だった。せいぜい自己の不遇に対する不満からくる現世諷刺だろうという思い込み。読了した後でも、このあたりは留保事項になる。著者(石原氏)のいうように植民地支配まで見通した批判の書であれば、その当時のイングランドでかくも好評を博しただろうか?そしてそれをスウィフトが意図していたとしたならば、それを評価したイングランドの知識人が、その後の英帝国主義にどれほど批判的であっただろうかという思いからである。

『ロビンソン・クルーソー』
 ついでのようにダニエル・デフォー著『ロビンソン・クルーソー』も読んでみた。スウィフトに刺激を与えた本だろうし、18世紀初頭の英国人の世界認識を『ガリヴァー』だけで測るのも危険かもしれない。『ロビンソン・クルーソー』は1719年の刊行で、『ガリヴァー』に先立っている。ただし、漂流してたどりついた島が南米の大河オリノコ川の沖の島という想定であるから、大西洋世界の話である。

 こちらの方は『ガリヴァー』とはだいぶ違った。同じ時期(18世紀前半)に書かれた英国の架空旅行記で、その後子ども向きに翻案されて古典化しているという共通点はあるが。時代は17世紀後半という設定になっている(1651~90年)。デフォーの生年が1660~1731年であるから、年代の回想録ともいえる。ロビンソンの父親はドイツ人ということで、当時の国民国家成立前の人間の流動性を感じさせる。父親が海外雄飛を夢見るロビンソンに「中間、または低い生活の上層にいるのであり、これが人間としての幸福にかなった最上の身分である」と諭す幕開けは、英国の中産階級の勃興時を反映しているのだろうか。アフリカ大陸西岸での貿易、ブラジルでのサトウキビのプランテーション経営、奴隷貿易への船出と、大西洋三角貿易のただなかにいて、富を蓄積し始める。小島で一人暮らしを始めてから、農耕、牧畜の起源、土器の製作、神への回心など、英国の中産階級らしい発展を示す。

 しかし、圧巻なのは、蛮人(人食い人種)フライデーとの遭遇だろう。最初から召し使いを見つけたいという意欲、最初に教えた言葉が「マスター」であり、キリスト教化していく。ここらへんはあまりにも露骨で、コメントするべくもない。というか『ガリヴァー』を石原氏の解説で読んだ後だと、あまりにも単純すぎる気がする。また、あまりにも簡単に人間、動物を殺すシーンが頻出する。ジイドの『コンゴ紀行』でも違和感を感じたが、やはり狩猟肉食人種文化なのかと思ってしまう。自分勝手な省察のみで、相手を対等な存在と考えることは夢にも思わない。まっすぐに植民地化を目指すことになる。

 18世紀の後半には、ヨーロッパ人から見て新大陸から南太平洋に知識の視野は広がった。この時期にアフリカはどの程度、知識の範囲に入っていただろうか?イスラーム圏北アフリカと西アフリカの海岸部(奴隷貿易の全盛期)とケープ植民地は知られていた。18世紀後半の英国では奴隷貿易廃止運動が進み、1787年シエラレオネ植民が始まり、1788年にはアフリカ協会が結成され、マンゴ・パークなどによるニジェール川探検が始まろうとしていた。いよいよアフリカ大陸内部に進もうとしていたのである。クックやブーガンヴィルの南太平洋航海がそれに少し先立ち、ゲオロゲの博物学があったということに感慨を感じる。

 さて、ヨーロッパ人から見た世界は18世紀前半に大きく広がった。では、新しくその視野に入れられた南太平洋の人たちから見て世界はどう変わったのだろうか?本書でいうとマヒネからの視線である。著者のいう「向かい合う二人の若者」であるが、記録はゲオルゲの方からしか残っていない。確かにマヒネの思いは想像できるが、あくまでそれはゲオルゲによる観察・解釈になる。この時代の南太平洋、アフリカの人たちの自らの思いを語ってもらうことはもはや不可能に近いのだろうか?

 蛇足だが、著者は有名な編集者であった。「あとがき」を読むと、本書には複数の編集者がいたことが知られる。本書の出版の経緯を読むと、なかなか「売れない」と思われる書籍の出版は、昨今の日本の状況では難しいというのはよく分かるし、個人の編集者の志に頼る部分も大きいのだろう。ただ、本書は読みづらかった。内容が難解だということではなく、文章がである。参考文献の明示とか、脚注を避ける努力をされているにもかかわらずである。つまり、「前置き」とか「ただし書」、「脱線」とかいう部分が異様に多いのだ。それは著者の興味の広がりの反映なのだろうが、いちいち断られるから、却って読みづらいというの印象が残った。

☆参照文献: 
 ・ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』(平井正穂訳、岩波文庫、1980年)
 ・ダニエル・デフォー『完訳ロビンソン・クルーソー』(増田義郎訳、中公文庫、2010年)

(2013年5月15日)






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