読書ノート




読書ノート No.47


 

オリーヴ・シュライナー『アフリカ農場物語』


根本 利通(ねもととしみち)


 オリーヴ・シュライナー作、大井真理子・都築忠七訳『アフリカ農場物語(上)(下)』(岩波文庫、2006年7月刊、600円+760円) 

 オリーヴ・シュライナー(Olive Schreiner、1855~1920年)は南アフリカの作家で、本書はその代表作の日本語訳である。原著は1883年ロンドンで出版された『The Story of an African Farm』で、当時の著者名はラルフ・アイアンという男性名になっていたとのことである。


『アフリカ農場物語』を執筆した農場

 舞台は現在の南アフリカ共和国の東ケープ。執筆当時はオランダ系ボーア人のトランスバール共和国とオレンジ自由国が存在し、英領ケープ植民地と対立していた。内陸の荒涼とした自然、広大な赤茶けた大地(カル―)、点在する小山(コピエ)やブッシュが舞台である。

 主な登場人物は農場主であるボーア人のサニ-おばさん、その亡夫(英国人)の娘である少女エム、その従姉妹である少女リンデル、農場管理人であるドイツ人オットー、その息子である少年ウォルドーである。この登場人物たちの関係はあまり明らかにされないが、死期を悟ったエムの亡父がサニーおばさんと結婚し、自分の死後のエムの成人までの後見人にしようとしたらしい。16歳で遺産を相続できるまであと4年ということらしい。

 平穏な農場の生活はある日ボナパルトと名乗るアイルランド人山師の登場で、大きくかき乱されることになる(第1部)。4年後と思われる第2部では少年少女たちは成長し、恋愛や女性の地位について語り出す。英国人の貴族の末裔と称するグレゴリー・ローズが登場する。またサニ-おばさんもピートというボーア人の青年と結婚し農場を出ていく。ウォルドー、リンデルもそれぞれ農場を出ていき、エムだけが残ることになる。

 物語(小説)であるので、ネタばらしになるようなあらすじの紹介はほどほどにしておこう。私が興味あるのはこの物語が書かれた1870年代後半の南アの状況である。英国によるケープ植民地化に伴い内陸部にグレート・トレックで逃れたボーア人の2共和国は健在で、そのうちのオレンジ自由国で1867年ダイヤモンド鉱が発見され、山師たちが流入していた。1877年に英国がトランスバールをいったん併合する。1879年にはズ―ルー戦争が始まり、イサンドルワナの戦いに英国軍が敗北するが、最終的にはズールー王国を征服する。1880年からボーア人が蜂起し、第一次ボーア=南アフリカ戦争が始まる。

 1884年ベルリンでアフリカ分割の会議が開かれ、ベルギーのレオポルド2世がコンゴへの野心を実現する。さらにトランスバールで1886年からゴールドラッシュが始まり、セシル・ローズがケープ植民地の首相になり、英国南アフリカ会社(BSAC)に南ローデシアを征服させる。第二次ボーア=南アフリカ戦争(1899~1902年)が起こり、ボーア人の2共和国が征服され、南ア連邦として統合され(1910年)、アパルトヘイト制度の基礎が形成される30年ほど前である。つまり、D.リビングストンによる伝道と探検の時代は終わり、ダイヤモンドと金という富を目指したむき出しの帝国主義・植民地支配に移行しようとしていた時代である。


東ケープの風景

 この物語ではアフリカ人には名前が与えられていない。「カフィールの少女」「ホッテントットのメイド」「ブッシュマンの少年」と呼ばれる。これは悲しいほどに徹底していて、脇役としてすら存在せず点景に過ぎない。

 著者が自分のかなりの部分を投影したと思われる女主人公リンデルがアフリカ人のことを次のように述べているシーンがある。「彼(カフィールの男)の属する人種は、その上に立つ人種との衝突の熱で溶けて、なくなってしまうのかしら。未来の人は、犬と白人との間をつなぐ繋ぎ目の痕跡として、彼の骨が博物館に展示されているのを見ることになるのかしら。」(第2部P.205)。はたして著者が南アの風土の将来の姿を本気でそう思っていたのかは分からないが、皮肉あるいは逆説として描いたとも思われない節がある。

 作者のオリーヴ・シュライナーはドイツ人の父と英国人の母との間に12人兄妹の9番目の子どもとして南アで生まれた。父は伝道の牧師、母は牧師の娘でキリスト教色の濃い家庭に育つ。両親はD.リビングストンが伝道のために南アに渡ったその2年前に南アに来ている。この物語のなかでも神と質問の多い悪魔との会話が頻繁に出てくる。キリスト教的な思索が多いのには閉口する。

 しかし、オリーヴはその家庭的なキリスト教的背景から離れ、無神論、社会進化論、そして女性解放論へと進んでいったように思われる。そしてそれはヴィクトリア朝期(1837-1901)の大英帝国の社会・思想に大きく影響を受けているのだろう。そしてオリーヴのこの作品が文学として評判を呼び評価されたようだが、生前はほかに小品(『マショナランドの兵士ピーター・ハルケット』1897年刊)を数編出すにとどまった。それよりも女性解放運動や反戦運動の指導者として名高かったのかもしれない。

 南アでの女性参政権が実現したのは1921年であり、オリーヴの亡くなった翌年である。しかし、それはもちろん白人女性の権利に限られた参政権であったことはいうまでもない。オリーヴはケープ植民地の女性解放連盟の副会長を務めたそうだが、その連盟の運動が白人のみに限られることに抗議して辞任したといわれる。その後のアパルトヘイト体制の出現を予見していたのだろう。


オリーヴ・シュライナー

 それにしても著者がこの作品を執筆したのは20代の前半であるから早熟という感はある。ほとんど学校へ行かずに、独学で読書から学んだという。西欧社会の家庭教師、家庭学習の教育の文化なのだろうか。そして英国の階級社会の反映でもあったのだろう。

 アパルトヘイト思想の確立を偏狭なボーア系の人種観に求め、英国系はリベラルだったと解説する傾向がかつてはあった。しかし、それはかなりな宣伝工作であると思われる。南アの基礎を作り上げたセシル・ローズとそれを支えた人びとは英国の帝国主義の申し子であったし、そのヴィクトリア朝期の英国の進歩思想、人種感が基盤になっているのだろう。

 いかなる人間もその存在した時代の制約から逃れることはできないと思う。かくいう私も21世紀初頭の思潮の制約を受けている。オリーヴが生きた19世紀後半から20世紀初めの世界は英国人にとってはヴィクトリア朝期の大英帝国の拡張期そして最盛期であった。世界を我がものとした英国人の一員としての思考が基盤としてあっただろう。

 ウェブでオリーヴ・シュライナーと引くと「アフリカ文学」の項目に登場することが多いだろう(ほかには女性解放運動家、反戦運動家だろうか)。アフリカ文学の南アでの初期の作家ということになる。「アフリカ文学とは何か」という論争にここでは立ち入らないが、例えば短期のアフリカ訪問者であったジョセフ・コンラッドの『闇の奥』とは同列には論じられないだろう。果たしてオリーヴが自分を南アフリカ人というアイデンティティをもっていたかどうか。

 つまり英国人でアフリカ滞在経験、あるいは生まれ自体がアフリカ内という経歴を持つ人たちはかなりいる。単に行政官やビジネスマンとして赴任して数年間過ごしたのではなく、生活の本拠をアフリカ内で持った人たち、その家族。しかしそういう人たちでも高等教育は英本国で受け、本国の人脈につながっていることが多いようだ。オリーヴの弟ウィリアムはセシル・ローズ辞任後の1898年ケープ植民地の首相を務めた支配階級に属していた。オリーヴは南アを帰るべき故郷とみなし、東ケープに葬られた。しかし南アフリカ人というアイデンティティが優先していたかどうかはわからない。根っこは英国人であったのではないかと感じている。

☆参照文献:藤永茂『私の闇の奥』(三交社、2006年)
 ・堀内隆行「南アフリカ史のなかのブリティッシュ・アイデンティティ」(大阪大学GCOEセミナー、2010年11月15日)

(2013年11月15日)






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