読書ノート




読書ノート No.48


 

良知力『向う岸からの世界史』


根本 利通(ねもととしみち)


 良知力『向う岸からの世界史-一つの四八年革命史論』(ちくま学芸文庫、1993年刊、1,200円。原著1978年刊)

『向こう岸からの世界史』
 本書の目次は以下のようになっている。

Ⅰ. 向う岸からの世界史
   四八年革命における歴史なき民によせて
Ⅱ. 一八四八年にとってプロレタリアートとは何か
   ウィーン革命と労働者階級
Ⅲ. もう一つの十月革命
   ウィーン便り
   ガスト・アルバイターとしての社会主義
 あとがき
 解説 (阿部謹也)

 ものすごく久しぶりにヨーロッパ史の本を読んだ気がする。ましてや1848年の二月革命とか三月革命の話は、それこそ高校の世界史の授業の時以来だとすると、40年以上経過している。固有名詞もあいまいに思い出すだけだった。

 なぜこの本を読んだのかというと、ウェブの書評を読んだからだ。最初のⅠ部、Ⅱ部はいわゆる論文で、それも岩波書店の『思想』という当時の進歩的な硬い雑誌などに掲載されたものだから、読みやすいわけはない。それがⅢ部の「もう一つの十月革命」あたりからぐんぐんおもしろくなって、「ウィ-ン便り」「ガスト・アルバイターとしての社会主義」と一気に読み進んでしまった。

 さらに「あとがき」と著者の同僚であった阿部謹也氏による「解説」を読んで、刮目してしまった。日本人の西洋史学者というのをあまり信用していなかった私はであるが、本書には感動してしまった。著者の名前は「らち・ちから」と読む。私は不明で存じ上げなかったが、高名な思想史・社会史学者で55歳で若くして亡くなっている。本書にも頻繁に出てくるヘーゲル左派とか、そのドイツ人、ロシア人の思想家、革命家の名前にも全く疎いので、1848年革命の再検討や書評にはならない。私の興味は「向う岸から」の「世界史」という考え方である。

  「向う岸から」というのは、ロシア人思想家ゲルツェン(1812~70)の著書『向う岸から』に由来する。ゲルツェンから見たら「向う岸」は西欧、特にフランス、イギリス、ドイツの近代教養社会である。「向う岸」の人びとは、こちらにも文化があり歴史があり生活があることに思いたらないという。こちら側というのは、ロシア人をはじめとしたスラヴ人、マジャール人などがいて、さらにその向こうにはトルコ、インド、中国などまとめてオリエントと呼ばれる世界がはるか遠くに見えている。

 エンゲルスにも「歴史なき民」という文句が出てくる。ポーランド人を除くスラヴ人には歴史もなければ未来もなく、文明を持った民族に吸収同化してもらうしかないという。ドイツの共和主義者はロシアの皇帝による専制をアジア的専制と重ね、1848年の革命に対し反革命として動いたクロアティア人、セルビア人などのスラヴ人を批判する。スラヴ人ではないマジャール人もハンガリー革命ののなかで西欧に同化を図る。考えたら「オーストリア」という名称も、西欧の「東の辺境」を意味していたのだ。そしてオーストリア・ハンガリー二重帝国は、多くの少数派民族問題を抱え込んでいたのだ。


10月30日のアマゾン女たち(ランツェデリ画)

 現在の知識で19世紀なかばの西欧的な近代化世界史観の欠陥を批判することは簡単だろう。しかし、はたして現在でも世界史像は西欧的近代化史から自由になっているだろうか?あるいは民族の問題は?ということを本書は投げかける。そして1848年のウィーンの史料を丹念に読みほぐしていく。反革命の主力として活躍した「赤マント」クロアティア兵だけではなく、ウィーンのバリケードのなかで最後まで武器を取って戦ったプロレタリアートの多くは、ボヘミア人などのスラヴ人であることを見出していく。

 「1848年のウィ-ン革命は、スローガンはブルジョア的である。だが、その文字はプロレタリアの血によって書かれている。…さらに、ウィーン革命のスローガンはドイツ的でもある。それはドイツ人によるドイツ革命であることを欲した。だが、「下民」は血統など縁はない。事実ウィーン革命は、敵も味方も非ドイツ的なスラヴの血によって塗られていたのである。」(P.148)

 「もう一つの十月革命」は、-歴史家とプロレタリアの対話として-という副題が付いているが、異色の文章である。自由奔放な創作のように見えるが、同時代史料に基づいている。10月6日から31日までの革命の敗北を追う。革命政府の市民、学生たちが怖じ気づき、下民・賤民と蔑まれたプロレタリアが武装し、最後まで戦って虐殺されるまでを描く。

 著者は1975年にウィーンに留学し、古本屋などを周りながら、1848年の同時代史料を漁る。新聞、アジ、パンフ、ビラ、手紙などである。その際に12年前には目立たなかったガスト・アルバイターの存在が気になり出す。ガスト・アルバイターというのは近隣諸国からの出稼ぎ労働者なのだが、ウィーンの場合圧倒的にユーゴスラヴィアからが多いという。そこで著者は1848年革命の時の、クロアティア人、ハンガリー人、ボヘミア人、ロシア人たちが革命・反革命に分かれて登場したことと思い出す。「赤マント」と嘲られ、恐れられたクロアティア兵と、ヴェトナムに派兵されたアメリカの黒人兵を重ね合わせる。

 「向う岸から」という言葉にかけた思いは「あとがき」のなかで著者が明らかにしている。「向う岸」、西欧的市民社会つまりへの挑戦の思いであろう。「向う岸からの世界史」が唯一ではなく、こちら岸にも世界史を自覚的にとらえる能力はあるんだよ、ということだろう。他者をとおして自己を限定しうる能力こそが普遍性につながるという。川向うのあちらこちらで、世界史を自覚的にとらえかえす力が育っている。それを著者は歴史そのものに語らせてみたいと思う。

 この「あとがき」と「解説」を読んで、私は急ぎ著者による別著『青きドナウの乱痴気-ウィーン1848年』を購入した。この本の「あとがき」の日付は1985年10月6日となっている。その2週間後の10月20日に著者は亡くなられているから、文字通り遺著だろう(ほかに死後刊行された3冊がある)。

『青きドナウの乱痴気』
 この本は11章にわかれているが、うち4章は「月刊百科」に掲載されている。したがって論文の多い『向う岸からの世界史』よりもはるかに読みやすく、かつおもしろい。以下のような章建てになっている。

 Ⅰ. セドルニツキは女を殺したか
 Ⅱ. コーヒー・ハウスとウィーン気質
 Ⅲ. 楽師・走り屋・行商人
 Ⅳ. それはマリアヒルフ~始まった-三月革命
 Ⅴ. われらが皇帝は遁走した-国民軍
 Ⅵ. 職人たちの春
 Ⅶ. 因業おやじハウスマイスターの受難
 Ⅷ. 真夜中の音楽会-シャリバリ
 Ⅸ. プラーターの夏に
 Ⅹ. 「自由な娘」たち
 Ⅺ. リンデンの葉がおちて-十月革命

Ⅰ~Ⅲでは1848年3月に起こる革命前のウィーンの社会を描いている。2回にわたるトルコ軍による大包囲を生き延びたウィーンの防衛上の二重の壁、間の空き地、市内区と市街区の成り立ちを説明する。そしてリーニエ(大木戸)の内と外に住む人たちの違いを述べる。美食家でコーヒーハウスに通い、音楽を愛好する市民たち。市内外の交通手段である乗合馬車、辻馬車、輿かつぎ。行商人、走り屋、楽師、水売り、屑屋、道路清掃人などのさまざまな職業人、流民。その背景にある故郷を離れたボヘミア人や旅するユダヤ人などの民族の流入にも触れる。

 Ⅳで3月13日の革命が始まる。学生の議会に対する請願デモに「工場下民」と蔑まれた労働者も参加し、市外区では暴動が発生する。あのメッテリニヒは宰相を辞任し、国外逃亡する。市民・学生が国民軍として組織され、3~5月は革命が華やかなりしであった。親方に対し職人たちは労働条件の改善を要求する。しかし、その中でも市民対よそ者(ボヘミア人、ユダヤ人など)、市民対職人の中に入れない下層労働者(プロレタリア)との対立は潜在している。5月17日皇帝一家がウィーンを逃亡する。

 Ⅶ~Ⅷで、因業おやじハウスマイスターの受難と、真夜中の音楽会シャリバリ(猫ばやし)が描かれる。革命の絶頂期(5月)の主役である市民・学生から、6~8月にかけて労働者たちが大きく参加してくる。私有権の神聖といったブルジョア革命的な共同体内部の変革から、共同体そのものに対する外部からの反乱に変わっていったとする。共同体内部での権力者、司祭、裁判官、工場主、パン屋、肉屋などが攻撃に対象になっていった。

 Ⅸで革命派内部の対立が暴力的な衝突となった8月23日のプラーターの星衝突事件を描く。「どうしようもない事実として残ったのは、労働者を殺したのが軍でも警察でもなく、革命当局の傭い兵だったということである」(P.205)。女たちが10月に銃をとる下地に触れた後、10月末のウィーンでの白兵戦まで一気に行く。『向う岸からの世界史』のなかの「もう一つの十月革命」に描かれていることだ。

 大学でアフリカ史を勉強する際に行く研究室がなかった。私の大学では日本史、東洋史、西洋史、西南アジア史、現代史という風に専攻が分かれていた。東アフリカ海岸の13~15世紀の歴史を卒論に選んだ私は西南アジア史に籍を置かせてもらった。それは西洋史の影の部分としてのアフリカ史という捉え方はしたくないという気持ちからだった。日本人で西洋史を研究する人にあまり好意を持てなかったからかもしれない。

 先に刮目してしまったと書いたが、それは目の前にあるアフリカ史というものから少し距離を置いた世界史を見たからだろう。このことは例えば、羽田正『新しい世界史へ』を読んだ時と少し似ている。世界史をどう構成するかということは、私なりの長年のテーマであり、西欧市民社会の裏側で見捨てられたアフリカ史を手がかりに進めているつもりだが、前途は遼遠である。それは自己の怠惰ゆえなのだが、まだ道はあるというヒントをいただいたように思う。タンザニアの歴史にどう応用していくのかは容易くはなさそうだが、少し元気になった。

☆参照文献:良知力『青きドナウの乱痴気-ウィーン1848年』(平凡社ライブラリー、1993年。原著1985年) 



(2013年12月1日)






バックナンバー

トップページへ戻る