読書ノート




読書ノート No.49


 

永原陽子編『生まれる歴史、創られる歴史』


根本 利通(ねもととしみち)


  永原陽子編『生まれる歴史、創られる歴史-アジア・アフリカ史研究の最前線から-』(刀水書房、2011年3月刊、2,900円) 

  『生まれる歴史、創られる歴史』
 本書の構成は次のようになっている。
 はじめに(永原陽子)
  1章 選択される過去(石川博樹)
  2章 800年後の「復讐」(近藤信彰)
  3章 清朝とコンパウン朝の狭間にある雲南のタイ人政権
     (クリスチャン・ダニエルス)
  4章 植民地期の南インド史記述とその現地的起源(太田信宏)
  5章 マンドゥメの頭はどこにあるのか(永原陽子)
  6章 東南アジアにイスラームをもたらしたのは誰か?
     (新井和弘)
  7章 英系ビルマ人の歴史と記憶(根本敬)
  あとがき(永原陽子)

 まずはアフリカ史ということで5章である。副題には「ナミビア北部・クワニャマ王国の歴史と現在」となっているが、実際には現在の国名ではナミビアとアンゴラに分断された地域のオヴァンボ民族のクワニャマ王国の記憶である。この分断という言葉に、クワニャマ王国最後のマンドゥメ王が南ア軍によって断頭されたこともかけている。

 民族がベルリン会議(1884~85年)で、ポルトガル領とドイツ領に分断されてからの歴史認識は、植民者側と先住民側は当然違ってくるのだが、マンドゥメ王の切断された頭がどこにあるかという謎で象徴しようとしている。1917年、「野蛮人」の「暴君」であるマンドゥメ王を「討伐」した南ア軍は、ウィンドフク駅前にオヴァンボ戦記念碑を建立した。この征服戦争で命を落とした南ア軍兵士たちの慰霊碑である。その地下にマンドゥメ王の頭が埋められているという言い伝えがあり、出稼ぎとしてウィンドフクに住むオヴァンボ人労働者たちが花輪を捧げるという行動を取った。

 筆者はマンドゥメ王の頭の行方、言い伝えの起源を探る。そして南アのコーサ人、ズールー人の首長たちが征服したイギリス人によって断頭されて、晒し首にされたこと。それはベルギー王私領コンゴ自由国やフランス領西アフリカでも似たような例が多くあり、本国の首都の博物館に頭蓋が持ち去られていることを示す。ヨーロッパ人による「頭狩り」はアフリカ人に忘れがたい屈辱を残しただろう。独立したナミビアが民族英雄のひとりトシテ」マンドゥメ王を記念する施設を造った。そしてその翌年には生地であるアンゴラもマンドゥメ王の記念碑を造ったという。植民地主義的な歴史観、ナショナリズムによる歴史観の間に翻弄されているように見えるが、オヴァンボの民衆にとってマンドゥメ王の記憶はどうなのかが重要なのだろう。

 続いて残るアフリカ史は1章である。副題には「北部エチオピアのキリスト教徒の歴史認識」とある。ハイレ・セラシエまで連綿と続いたとされるソロモン朝エチオピア王国は、アムハラ民族によるキリスト教国家であった。エチオピアという国はアフリカのなかで特異な位置を占めると思う。一般的にサブサハラ(ブラック・アフリカ)諸国に含められるが、はたして本人たちの意識は如何かと思わせる時がある。

 サブサハラのなかでは例外的な文字を持ち、そのゲエズ語・アムハラ語史料を検討する。ソロモン王とシェバの女王の末裔という系譜の尊重。ユダヤ人の歴史やローマ帝政、ビザンツ帝国のキリスト教徒の歴史には関心が多いが、イスラーム世界、あるいはイスラームによるエジプト征服以降のコプト教徒の歴史にも関心が希薄というか意図的に排除していると思われ、つまり過去を選択しているわけで、それが歴史認識に重大な影響を及ぼしているという。

 余談ではあるが、そのゲエズ語・アムハラ語の手稿史料が大量に略奪され、マグダラ・コレクションとして大英図書館に現存しているというのはため息が出る。エジプトやメソポタミア、あるいはギリシャなどで考古学調査と称して莫大な文化財の略奪、蓄財が行なわれたが、それは英国人の文化の一部になっているのだろう。サザビーズのオークションしかり、また骨董品をめぐる殺人などを描いた推理小説が人気があるのも、その一環だろう。

   ある首長の死
 植民地勢力に略奪された文化財という観点でいうと2章がある。英国軍によってアフガニスタンから略奪された門扉である。11世紀のガズナ朝の君主スルターン・マフムードの墓廟から奪われ、現在アーグラー城にある「ソームナートの門扉」の話である。マフムードが1025年インドのグジャラートにあるヒンドゥーの聖地に遠征し、その寺院の偶像を破壊し、一部をガズナに持ち帰ったという。それを1842年、ガズナを占領した英国軍が800年前の屈辱を晴らすと称して、門扉を奪い取ったという事件だ。

 筆者はペルシア語、アラビア語などのムスリム史料を精査して、19世紀になるまでこの伝説がないことを確かめる。19世紀に入ってアフガーンを旅行した英国人の旅行記に初めて言及されている。その背景として、当時アフガーンをめぐってロシアと対立していた英国の、インドにおける威信確立と、ヒンドゥー民族の統合のシンボルにしようとした新任のインド総督の政治目的利用が透けて見えてくる。しかし、いったん作られた伝説は、20世紀のインド・パキスタン分離独立の際や、21世紀に入ってもインド国内のヒンドゥー、シク教徒の対立の際にも亡霊のように蘇っているという。コミュナリズムというか、英国得意の分割統治の負の遺産が残っているというべきなのだろうか。

 4章は植民地主義史観による独善的とも思える歴史叙述のなかにも、実は植民者に協力して知識を提供した現地の知識人の存在が影響していた。そしてその提供された情報は、提供者自らの価値観・利害に応じて「主観的」なものであったとする。その例を16世紀後半から19世紀初めにかけての南インド史の叙述に頻繁に登場する「ポリガール」(悪漢)という英語表現の起源について考察している。

 ポリガールというのはイギリス植民地支配当局がてこずった現地権力者のことだが、カルナータカ州に残るカンナダ語文献には「パーレヤガーラ」として、イギリス人の進出以前に存在していたことが明らかになる。こうした文献は土地の世襲的な役人によって記されているが、彼らにとってパーレヤガーラは正当性のない暴力的で圧政的な権力者として否定的に描かれ、それがイギリスの植民地統治者の観点に流入しポリガールとなったという。

 しかし、同じ南インドの中でもテルグ語圏、タミル語圏にもポリガールに対応する語があり、必ずしも否定的なニュアンスのみでは語られない。現地権力者からいわせれば自分たちの価値観はあっただろうし、民衆から見れば権威に屈しない英雄としての憧憬を歌った民謡もあるという。イギリスの植民地支配者側が一枚岩であったわけではない以上に、南インドの社会、人びとは多様な立場、価値観、認識を持っていたということなのだろう。だた不案内な読者の立場からいえば、もう少しポリガールと呼ばれた人たちや在地役人の生の姿を浮かび上がらせてほしかったと思う。

 7章は少し特異な題材である。「英系ビルマ人」といわれると、英国人であったがビルマの独立の際にビルマ国籍を選んで残った人たちかと思ってしまった。しかし、この場合は「父系に英語母語化したヨーロッパ系の血縁を有するビルマ土着の人々」を意味する。独立前は2万人強、人口の0.13%程度だったが、議会に議席の割当をもらい優遇されていた人たちのことである。一般のビルマ人に比べて優遇されかつ優越意識を持ち、母語は英語でキリスト教徒が圧倒的である人びとである。

 その人たちの日本占領期(1942~45年)の記憶、日本軍への反感、アウンサンなどのビルマ人ナショナリストへの見方、戦後の独立前の国籍選択を前にした動揺。建前と本音。独立後に英国、オーストラリア、ニュージーランドへ出国した人びとへのインタビューを行っている。圧倒的少数の人たちだが、当然歴史認識は異なってくる。自己の立ち位置、アイデンティティーによって異なってくるのだろうが、アウンサンスーチーの歴史認識をふと思ってしまった。

 3章は近代の植民地支配ではなくて、中華帝国の膨張のなかで辺境というか「化外の地」と呼ばれた地域の人びとの歴史。何やら19世紀のヨーロッパで「歴史なき民」とスラヴ人のことを呼んだ西欧の知識人を彷彿とさせる。現在の中国では少数民族に分類されるチベット人、ウィグル人や内モンゴルのモンゴル人は本来自らの国を持っていたのに、今は中国の歴史的領域内とされる。現在の中国の領域といわれるものは18世紀後半の清朝の盛期のものだ。この清朝の膨張期をになったのが非漢人であるのは皮肉なのだろうか。

  この章では現在の中国の雲南省で、18世紀末~19世紀の初めの膨張する清朝の辺境に位置し、一方で勢いのよかったビルマのコンバウン朝との間に挟まれたタイ人政権ムン・コーンの歴史を見る。清朝に服属しながら独自性を維持しているタイ人の政権は盆地に基盤があるが、領域内に山地を含み、その山地にはタイ人以外の民族が住んでいる。そのジンポーだとか、ドァアーンと呼ばれた山地民族は、タイ人に比べるとさらに「野蛮」と見なされていたが、その民族との距離の取り方、取り込み方がタイ人の小政権の安定・不安定を引き起こした。

 清朝・漢人の軍事力、周辺のタイ人の小政権、複数の山地民族とのバランスで、ムン・コーン政権は成り立っていた。その距離の取り方は、欧米がアジア・アフリカの植民地でやったような民族的な排他的政策ではなく、民族集団の棲み分けとタイ人との文化的距離によって決定されていたと筆者は述べている。私が当初期待していた中華帝国主義と近代の西欧の帝国主義との類似点という面では肩すかしだったが。

アジア・アフリカ史研究最前線
 6章はあまり気がつかず、史料も少ないテーマだろうが、その分おもしろい。東南アジア島嶼部で最も信者が多いのはイスラームである。13世紀以降、誰が、どこからイスラームをもたらし、どのように人びとを改宗したのかという史実に迫ろうとしているのではない。史料から証明されえない過去の出来事に関する認識はどのように創られたかを探ろうとする。

 インドネシアのジャワ島で15~16世紀に活躍したワリ・ソンゴ(九聖人)に対する民衆の信仰と、18世紀半ば以降に増えたイエメンのハドラマウト地方からの移民(ハドラミー)の関係。特に宗教者として活躍してきたハドラミー・サイイドと呼ばれる人たちが、自分たちの系図のなかにワリ・ソンゴを取り込んでいく様子を描く。そしてハドラミー・サイイドの積極的な宗教活動・出版活動の結果、彼らの歴史観が一般民衆に受け入れられていく。「一般の人々にとっては過去から現在に遡っていく形で提示される歴史観のアピール力は強い」(P.177)。

  アジア・アフリカ史という表現を久しぶりに見た気がした。1970年代、自分自身が「国史」「東洋史」「西洋史」という枠組みから逃れて、アフリカ史を通しての世界史再構成という野望に燃えていたころを懐かしく思い出した。その後東アフリカとインド洋西海域世界にのみ目を向けていたのだが、最近またヨーロッパ、南アジア、東アジアの歴史にも興味が向かいつつある。

 本書の目的・問題意識は「はじめに」「あとがき」で述べられている。「伝統的な帝国とその周辺に位置する少数民族との接点、近代植民地主義の影響下の地域社会、また一つの地域から別の地域に移住した人びとの社会など、力関係を異にする複数の文化や集団が接触し交渉する場」を叙述する。その方法として、地域の固有言語で残された史料や伝承、聞き取りを重視し、西欧諸国の植民地史料も再検討するということである。

 この問題意識は7人の筆者共通のものではないかもしれない。アフリカ史(この場合は現在のナミビアとアンゴラ)という文献史料のない歴史をやっている編者の問題意識が強く現れてるいるのかもしれないと思ったりもする。植民者・支配者対先住民・被支配者という単純な二元対立ではないことは、2章や4章を読めば明らかだ。3章でも中国人とタイ人の意識は文献史料で引き出せるが、さて当時ジンポーとかドァアーンと呼ばれた、おそらく文献史料の残っていない人たちの歴史認識はどうだったのだろうか?

 アフリカの内部の文献史料が残っていない歴史をどう構成するかという難問に向かって、もう数十年になる。民族の口承伝説を血肉化できない外部の人間は、外部の人間の残した文献史料を参考にしながら、ナショナリズムのなかでややもすれば忘却されてしまいがちな外部との交流を地道に復元していくしかないのではないかという思いがずっとあった。しかし、内部・外部という分類だけでは到底処理できない事象が多々ある。

 歴史認識という点でいえば、植民地時代に英国の歴史教科書で英語で学んだエリートたちはともかく、最近のタンザニア人による歴史教科書で学んだ若者たちも、欧米の近代化史観に洗脳されているんではないかと思うことがときどきある。タンザニア人といっても多様だし、その人たちの拠って立つ生活基盤を見ていかないといけないのかもしれない。

(2013年12月15日)






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