読書ノート




読書ノート No.54


 

栗山保之『海と共にある歴史』


根本 利通(ねもととしみち)


 栗山保之『海と共にある歴史-イエメン海上交流史の研究』(中央大学出版部、2012年1月刊、3,800円) 

『海と共にある歴史』
 本書の目次は以下のようになっている。
 序論
 第1章 イエメンと国際貿易
  第1節 イエメンと紅海貿易
  第2節 イエメンから見た国際貿易
  第3節 国家による貿易の管理と統制
 第2章 イエメンの国際関係
  第1節 南アラビア情勢の変容とインド洋西海域
  第2節 イエメン・エチオピア関係と紅海情勢
  第3節 インド洋西海域世界におけるイエメンの国際関係
 第3章 イエメンをめぐる人びとの移動と交流
  第1節 インド洋西海域世界のなかの学術都市ザビード
  第2節 インド洋西海域世界におけるハドラミー・ネットワーク
 結論
 補論 ポルトガル来航期のインド洋におけるアラブの航海技術

 第1章ではラスール朝(1228~1454年)支配下にある国際貿易港アデンに焦点を当て、出入りする商品を分析している。主に13世紀末(1290~94年)に編纂されたと思われる『知識の光』という史料に基づいている。まず、商品の種類であるが、エジプトからアデンに到来した物で見ると、織物類が69%で断然多く、次いで香料・薬種類(19%)、鉱物類(14%)、食品類(5%)となっている。産地で見ると、織物類はエジプト、イラン、イラク、シリア産が多いのだが、遠く中国産もあるし、東アフリカのスファール産のターバンというのがあり、首を傾げてしまった。

 さらに同じ史料で積出地、経由地を分析すると、キーシュ(29%)、メッカ(29%)と拮抗している。その後はイエメン(10%)、インド(7%)となっているが、現在のイエメンの地域内ということでいえば、ザビード(4%)、シフル(2%)や山岳地(上イエメン)や「海路」のなかに含まれるものを足すと、イエメン分はかなり大きいだろう。

  ラスール朝は関税収入が大きな比重を占めたようだから、港の出入りはかなり厳格に統制されていたらしい。アデンの町と壁で隔てられた通関場所には、海側と陸側に二つの門があった。入港した船は積荷を申告し、上陸する際には男女とも厳しく身体検査されたという。通常の関税は従価税、従量税の二通りがあり輸出入ともに課税された。他に輸入時には商品の価格・品質を検査する仲介人の手数料、さらに東方からの商品にはシャワーニーと呼ばれる税(船団保護料)が課せられていた。

  13世紀の西インド洋世界
 第2章では、時代は17世紀半ばに飛ぶ。オスマン朝の支配を脱し、上イエメンのザイード派イマーム政権がアデンなどの南部も支配する。そしてイマーム・ムタワッキル(在位1644~76年)時代に、ハドラマウト遠征を行い、現在オマーンの南西部であるズファール地方まで支配したことを記す。この遠征の目的は当時のハドラマウトの主要港であったシフルの国際貿易収入を押さえることであったという。その背景には、オマーンのヤアーリバ朝や西欧諸国の海上活動の活発化があった。

 さらにこの時代のイエメンの周囲の国際関係を分析する。潜在的な最大の敵としてオスマン朝、そして身近にズファール国境とアデン湾の海上支配権を奪い合うヤアーリバ朝オマーンの存在がある。そのために他の隣国とは友好関係を結ぶ。ソロモン朝エチオピア、サファヴィー朝イラン、ムガル朝インドである。使節、書簡、贈答品が往来する。実現しなかったがエチオピア遠征案もあった。それが実現しなかった原因として、イエメン国内の諸部族の反乱の可能性が挙げられているのには納得してしまう。またオマーンと比べ、上イエメン出身のイマーム政権は海軍力が不足していただろう。

 第3章は、国家ではなくイエメンに出入りした人びとの国際往来の分析である。まず国際学術都市として名高かったザビード。819年アッバース朝の地方政権の首都として建設されたザビードは、政治的・軍事的拠点都市として機能していた。1229年に成立したラスール朝は、積極的にマスジッド、マドラッサという宗教・学術施設を建設し、学者・知識人を招聘、厚遇した。14~15世紀には、西はマグリブ、南は東アフリカ、東は中央アフリカというイスラーム圏から、多数の人が来訪、滞在し、去っていった。その繁栄の背景をラスール朝の性格に求めるのだが、1516年に侵攻したマムルーク朝による放火・略奪で一気に寂れてしまう。

 続いて『水場』という史料に基づいて、16世紀のハドラマウトからの人びとの移住を追う。メッカ、メディナという聖地やアデン、東アフリカもあるが、インド、東南アジアへの移住も多い。ハドラマウトの砂漠地帯の古都ターリムからサイイド家系列のインドのグジャラート、デカン高原地方への以上の足跡を追う。名門出身であるがためか、異郷の各地の有力者の庇護を受けたり、通婚したりして地位を築いていく。その背景にはハドラマウト地方の自然環境の厳しさと、長年培ったモンスーンを利用する航海技術があったという。

 補論はその航海技術に関してである。16世紀初頭、ハドラマウトのシフル出身と思われる航海技術者スライマーン・アルマフリーによる技術理論書である。ヴァスコ・ダ・ガマが先陣を切って流れ込んできたポルトガル人と対抗した16世紀初頭のインド洋の航海技術書である。20世紀のヴィリヤースの『シンドバッドの息子たち』を読むとアラブのダウ船のナホーダ(船長)たちは、経験と山勘と個人の技量に頼っていたように見える。そうではないというものを証明する史料なのだろうけど、なかなか難しい。

  ハドラマウトの主要港シフル
 著者はイエメン史の研究者である。イエメン史といえばわが国では13~15世紀のラスール朝の新史料を発見し、さらにインド洋の海域世界へと視野を広げた家島彦一が名高いが、著者はその足跡をたどっている。家島の海域世界論の集大成は『海域から見た歴史』であるが、それを随所に参照している。

 第3章第2節のエピソードがおもしろかった。ハドラミーの移住者を受け入れたインドのデカン高原にあり、南下するムガル朝勢力に対抗したアフマドナガル王国の宰相マリク・アンバルという人物である。出身地はエチオピアで、バグダードの奴隷市場で購入された。アフマドナガル王国の宰相の一人に仕え、ムガル朝との抗争に軍事的才能を発揮して大宰相まで上り詰めた。軍事だけではなく、自身が学者であり、宗教・文化の保護者としても名高く、多くのウラマーを庇護したという。また移住してきたハドラミーの故郷に対しても経済援助を行ったという。これもインド洋西海域世界の人間の移動、交流の精華なのだろうが、奴隷身分出身についてまた考えさせられるところである。

 インド洋海域世界の交易の主役は二千年間ダウ船だった。ダウ船の船乗りたちは国家の統制・管理を逃れ、自由に最大限の利益を上げようとしただろう。従ってほとんどの船乗り、船客が「密輸者」といえる部分を持っていたのだろうと思う。陸域国家の統制外で生きていた部分が大きいと思われる。

 しかし、著者のいう結論部分はやや尚早のように感じる。「イエメンの歴史を…西アジアの一辺境と見なされる傾向にあった。…巨大な国際貿易網の枢要のひとつとして機能していた」とあるが、「辺境」「枢要」という言葉を吟味した方がいいように感じた。そして「この国際的連関こそ、イエメンの国際性を明瞭に示すものであった。…イエメンの歴史とまさに、海と共にある歴史なのであった」とあるが、「国際性」という言葉の評価と共に、本書で分析されたアデン港の史料だけでは、「海と共にある」というのが浮かび上がってこないように感じるのだ。

 一時はダルエスサラームまでサナア、アデンからイエメン航空が飛んできていたし、ザンジバルにはムシヒリ(Mshihili)と呼ばれるハドラマウト出身のアラブ人のグループがいるように、東アフリカとは交流が深い。石油が出ない古きアラビアが残っているといわれるイエメンというのは憧れの場所ではあるが、シリアやソマリア、ラム島と同じような理由で、今は行けなくなってしまった。機会を待ちたい。

☆参照文献:
 ・家島彦一『海域から見た歴史』(名古屋大学出版会、2006年)
 ・Alan Villiers "Sons of Sindbad"(Arabian Publishing、2006) 

(2014年3月1日)






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