読書ノート




読書ノート No.55


 

Abdul Sheriff 『Dhow Cultures of the Indian Ocean』


根本 利通(ねもととしみち)


 ザンジバル交易史の第一人者アブドゥル・シェリフ(Abdul Sheriff)氏の新著である。原題は"Dhow Cultures of the Indian Ocean-Cosmopolitanism, Commerce and Islam"(C.Hurst & Company,London,2010)。購入してから読みだすまでに2年以上経ってしまった。

『インド洋のダウ船文化』
 本書『インド洋のダウ船文化―コスモポリタニズム、商業とイスラーム』の目次を見てみよう。インド洋海域世界の交易史の俯瞰を試みている。

 第1章 はじめに
 第2章 海
第1部 関連する地域
 第3章 スワヒリ海岸
 第4章 中間の砂漠地域
 第5章 西インド海岸
第2部 航海
 第6章 ダウ船
 第7章 インド洋西海域の航海術
第3部 大洋を越えた対話
 第8章 夜明け:エリュトウラー海の世界
 第9章 イランの時代
 第10章 シンドバッドの時代
 第11章 マダガスカル:海から来た人たち
第4部 インド洋の文化的世界
 第12章 インド洋における奴隷貿易と奴隷制:ザンジの反乱
 第13章 ムスリムの湖
 第14章 文化的連続:インド洋を渡る動機
 第15章 海洋の自由とアンチ・テーゼ
 終章 インド洋のグローバルな世界

 著者の立場は第2章「海」の冒頭で表明されている。「海は世界の果てではない。生計と資源と機会を持ったすべての新しい世界の始まりなのだ」。従来の歴史は大陸とその文化に囚われてきた。海による人びとの親密なつながりを無視してきたという。この視点は家島彦一『海域から見た歴史』と共通するといえる。

 まず第1部でインド洋西海域世界の地理的な条件を、3つの地域に分けて概観する。3つの地域とは、スワヒリ海岸(現在のタンザニア、ケニア、ソマリア南部の海岸)、アフリカの角と対岸のアラビア半島、ペルシア湾を含む砂漠地帯、そしてインドの西(マラバール)海岸である。この地域を結んでいたのは、一年を通じ方向を変える季節風と海流であった。

 第3章ではまずスワヒリ海岸に触れる。森林地帯といっても年間降水量がさほど多いわけではなく、海岸から数十キロ入るとサバンナ(Nyika)が広がる。その移動焼畑による農作物を見ると広域の交流が見えてくる。16世紀以降の新世界起源の作物はともかくとして、バナナや稲の利用はかなり古くまで遡るようだ。しかし後背地の広がらない海岸沿い、島の人びとは海に向かった。生計の柱としての漁業である。ダウ船や漁網などからアジアとの交流が浮かび上がる。


ラム島沖のダウ船上の著者

 第4章では中間の砂漠地帯に触れる。ソマリア北部は省いて、紅海とペルシア湾に挟まれたアラビア半島が中心である。世界でもっとも乾燥した地域であり、農業にはほとんど適さない。主要な産業は古代からの漁業、干し魚、塩漬けの魚、鮫は有力な輸出品だった。またペルシア湾のアラビア側で行われる天然真珠採りも、紀元前からの記録がある。そして3番目の産業としてそれと密接に結びついた生活必需品交易のための沿岸交易、そして東アフリカ海岸、インド西海岸との遠距離交易に触れる。オマーン東南の港スールの船乗りの例を挙げ、南はマダガスカル、コモロ、西はアフリカ大陸の内部からの妻たちと各地に家庭を持つ、年の10カ月は海外にいるシンドバッドたちの生活を描く。

 第5章では、東の森林地帯であるインド西海岸に触れる。ヒンドゥー教の教義では「暗い川を渡る」ことに禁止があるのか、高位のカーストは参加していないが、ジャイナ教徒、仏教徒、ムスリム、クリスチャンなどは古くから海に乗り出していた。イスラーム西海岸はグジャラート、カッチというパキスタンに近い北西部と南西部のマラバール海岸に分かれる。グジャラート地方は棉作地であり、インド洋海域に広まる綿織物が輸出され、バニヤンと呼ばれる承認も有名だ。マラバール海岸は西ガーツ山脈が海岸に迫り、海へ出ざるを得ない地勢になっている。インド有数の漁業、ココナツ、香辛料、材木の生産地になっていて、その有力な産品を持って遠距離海外交易にでかけていた。

 第2部では、航海の主役であったダウ船とその航海術について説明する。まず第6章ではダウ船の語源、特徴、変遷、遭難率の推定など。紀元前からの縫合船という鉄の釘を使わずに、ココヤシの繊維などを利用したロープで結び合わせる形式の船が長い間(19世紀まで)使われている。しかし、それは西洋の好む「オリエントの停滞」ではなく、ダウ船は中国やポルトガルの影響を受けつつ、その時代の経済的・技術的条件に適応して変化してきたことを明らかにする。またダウで行き来した人びとについては、年1回10カ月にも及ぶサイクルの中で、アラブの男たちが各寄港地で家庭を持ち、雑種の文化を育んできたとする。英国植民地当局は彼らをなんとかきちんと人種・国籍で分類しようとしたが。

 続いて第7章ではアラブ人の航海術に触れる。先人の記録は散逸しているのが多いようで、主に高名なイブン・マジード(15世紀後半)、スライマーン・アフマフリー(16世紀前半)の航海技術書に準拠している。航海者にとって必要なものは、季節風の知識、方位測定の器具、そして目標に関する知識・経験だという。イスラーム暦は太陰暦であるので、季節風の時期とはずれていってしまう。そこで太陽暦であるイラン暦を航海には利用するのだが、閏年を設けないため長期にわたるとやはりずれていく。ザンジバルに残るナイルージはこのイラン暦の新年祭りの伝承であるといわれる。13世紀に中国から伝わった羅針盤と、Kamalと呼ばれる独特の方位測定器具が述べられている。


インド洋の交易網

 第3部ではインド洋西海域世界の歴史を追う。まず第8章では『エリュトウラ―海航海記』時代の世界についてである。この古典は紀元1世紀のギリシア人による、紅海とインド洋の航海案内記である。インド洋における海上交易は紀元前5,000年以上から始まり、例えばバビロンの宮殿にインド産のチークが使われているという。1世紀、南アラビアのモカと西インドのキャンベイ周辺が2つのハブとして交易が盛んであり、そこにローマ帝国の興隆とともにギリシア人商人が参入してくる。ローマの経済力を背景に東アフリカの象牙、南アラビアの乳香、西インドの胡椒などをローマの貨幣と交換で輸入していた。

 第9章ではイラン人航海者の話。過渡期と副題が付いているが、それはササーン朝ペルシア時代がビザンティンと競合していた時代で、ゾロアスター教の痕跡が各地に残っている。その後、イスラーム勃興以降の特にアッバース朝時代にペルシア湾ルートが主軸になってからのシーラーフ港・商人の活躍を語る。シーラーズを都としたブワイフ朝時代に入るとシーラーフはますます繁栄し、巨大な富商たちを生み出し、中国の広東に多数居住していたという。スワヒリ海岸ではキルワ、ザンジバル、ラムを中心として、北はモガディシオ、南はモザンビーク島、コモロ、マダガスカル北西部まで「シラージ伝説」が残っている。

 第10章はイスラーム時代のシンドバッドのたちの活躍の世界を描く。8世紀のアッバース朝から15世紀まで。地中海世界からやってくるヴェネツィア商人、ユダヤ商人から、東は中国、スマトラの商人をつなぐ。スワヒリ海岸(キルワ、ザンジバル、モンバサなど)にも広がるペルシア、アラブの商人の時代なのだが、各港市、シーラーフ、キーシュ、ホルムズ、ミルバート、アデンなどの盛衰はある。そして東方のマラッカや泉州などとをつなぐインド西岸のマラバール海岸(クイロン、カリカット)やグジャラートの港市の中継地としての重要さを示す。各港市には多くの外国人の居住区があり、コスモポリタンな文化が花開いていた。この当時は各港の都市国家が独立性を保ち、巨大な陸域領土国家とは距離を置いていた。

 第11章はマダガスカル島という西インド洋海域では一つ孤立した地域を扱っている。孤立していたというのは私の思いこみで、だからまだ行ったことはないのだが、そうでもないのかもしれないと思わせる。主流であるインドネシア・マレー系の人たちがいつ、どうやって来たのかということはまだ論争があるようだが、1回ではなく数次にわたって渡って来たようだ。そしてモザンビーク海峡を渡って来たアフリカ人遊牧民、東アフリカ海岸からコモロ諸島を経由して来たであろうスワヒリの人たち。まだマダガスカルの海上民が、18~19世紀にマフィア島、キルワ、ザンジバルなどを襲撃して奴隷狩りをしたという記録も残っている。さらに「奴隷は言葉を失っても音楽は残る」と、アフリカから連れ去られた奴隷がインドネシアに木琴を伝えたという仮説も紹介されている。

 第4部では、インド洋西海域の世界の文化・人間の交流とその統一性を論じる。第12章では、その負の遺産ともいうべき奴隷制と奴隷貿易を論じる。「大西洋における奴隷貿易をキリスト教奴隷貿易とは決して呼ばないのに、インド洋のそれをややもするとイスラーム奴隷貿易ということがあるのはなぜか?」(P.218)と反発を見せる。マズルイを引用して、「イスラームの異種混交は上昇志向だが、アメリカのそれは下降志向」とする。また、「イスラームは同法を奴隷としないし、そのシステムの中に解放、同化のメカニズムを備えている」とする。


ザンジバル沖のダウ船(ジャハージ)

 現実にインド洋世界では奴隷貿易が長期にわたって行われた。ザンジという呼称は7世紀末から現れるらしい。南イラクの湿原の農業地帯に大量の奴隷が投入され、869~83年のザンジの乱が勃発する。ただ、ここでのザンジは、東アフリカ出身者だけではなく、広い範囲のアフリカから送られた奴隷もしくは解放奴隷を指していた。また、遠く中国・インドにもアフリカ人奴隷は輸出されていた。特に軍人として購入されたエチオピア人奴隷のうちのある者はインドで台頭し、実質的な支配者となってムガール帝国と抗争したマリク・アンバール(1550~1626)のような人物も生まれた。

 第13章では、7~15世紀にかけてのイスラーム世界の拡大の過程で、インド洋が「ムスリムの湖」となっていった様子を描く。それはイスラームという宗教の特色で、開祖ムハンマド以来商業を尊崇し、異民族・文化・宗教との交易で寛容が重要で、あらゆる人種・民族・国粋主義を否定していたからだとする。イブン・バットゥータを代表としてイスラーム世界を巡回した学者、スーフィー教団、そして何よりもメッカの巡礼がイスラーム共同体の一体感を高め、かつそれに伴う交易を盛んにしたという。そしてこの「パックス・イスラミカ」は、ヴァスコ・ダ・ガマに始まるポルトガルの侵入まで続いた。

 第14章では、逆にインド洋海域世界の文化の多様性を述べる。まず南アラビアのハドラマウト地方。降水量が少なく農業適地が乏しく、主要産業の漁業と交易では人口を養い切れずに、かなり以前から商人、イスラーム教導師として移住するというのが潮流としてあった。移住先はスワヒリ海岸、インド西岸、東南アジアなどであって、各地にクレオールな社会を作って居住する一方、父系制で故郷との紐帯も強く、帰郷したり送金で故郷にモスクなどを建てている。

 その移住先での世界としてスワヒリ海岸とインド西のマラバール海岸を挙げている。どちらでも外来の船乗り・交易者であるハドラミーなどのアラブ系の男性と、母系制である地元の女性との通婚が進み、外来者はアラブ系の人間として地元社会に根を下ろしていき、複合的な文化を生み出していった。それが東アフリカではスワヒリ人・スワヒリ語を生み、またコモロ諸島では地元のなかに吸収されていった。マラバール海岸ではマッピラ・ムスリムという階層を海、共通語としてアラビック・マラヤラム語を持ち、後背地のヒンドゥーの州は医者と友好関係を保ちながら、沿岸部に半自治的な共同体を維持していたという。

 第15章ではインド洋海域への東からの来航者である中国人の活動、特に1405~33年に行われた7次にわたる鄭和の大遠征に触れる。その背景はともかくとして、中華帝国による朝貢を求めた遠征は、各地の港市に武力的介入をしたことはあっても、植民地的征服にはならなかった。鄭和の旗艦は全長135m、幅55m、排水量2,500トン以上で、乗員も500人くらいと推定されている。80年後に「大航海」したコロンの船隊が3隻で総トン数415、旗艦のサンタ・マリア号が全長26mだったのに比べると強力な船隊だったろう。しかし、総じて平和的な遠征であり、一方「未知の海を探検」してやってきたヴァスコ・ダ・ガマ以降の暴力的なポルトガルの介入によってインド洋の交易事情は一変することになった。


コーチンのチャイニーズ・フィッシュネット(1992年)

 結章で著者はまとめている。「インド洋のグロ-バルな世界は数世紀にわたって発展し、15世紀に至って成熟した。インド洋を支配する季節風システムのなかの所与の環境の間の、商業的、社会文化的な交換のなかから育ってきた。15世紀の前半、歴史環境のなかで異なる交易のパターン、商品、人びとは、文明間の対話を固めてきた」(P.317)。インド洋はポルトガル人の到来までは、地中海よりもはるかに多様な文化と宗教の人びとの対話の場所だった。

 真珠採りという産業について本書の第4章で、各地の首長の下、船主、船長、真珠採り水夫の前借システムで動いていた厳しい肉体労働であったことが記されている。ヴィリヤーズの『シンドバッドの息子たち』 にクウェートの真珠採り潜水夫の厳しい労働が描かれていた。またラス・カサスの『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』にも、西インド諸島でインディオたちがスペイン人に真珠採りで酷使され、絶滅に追い込まれる様子が描かれている。天然真珠採りの歴史についてはヴィリヤーズの本を読むまではほとんど知らなかった。では世界の他の地域では、そして日本では天然真珠採りはどうだったのだろう、というのが次の興味となった。

 「ムスリムの湖」という表現・評価についてである。ムスリムである著者の主張なのかもしれないが、「インド洋はイスラームの海であった」という表現には異論があると思われる。ムスリムが多数派であったことは事実だったとしても、交易を担った人びとのなかには、ユダヤ教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒、ゾロアスター教徒、シリア系キリスト教徒などもいた。競合関係になることは常だし、敵対関係になることもあった。しかし、レコンキスタを終えたばかりで意気軒昂で登場したポルトガル人の対イスラームのような敵対意識は薄かったに違いない。

 著者の専門はインド洋西海域であるが、マレー半島を越えた南シナ海にまで視野を広げている。さらに、東南アジアの多島海の現在のインドネシアのマルク諸島まで交易の世界は広がっていたのだ。16世紀以降、そこに入り込んできたポルトガル人、スペイン人、オランダ人、英国人たちの軌跡は新しい時代を告げたのだろう。

 インド系ムスリムでかつザンジバル在住である著者の面目躍如という内容になっている。自分の現地調査の結果も多分に入っているが、先学の研究が簡潔にまとめられた概説書という感じである。私自身、まだ行っていないマダガスカル、一度しか行っていないインド西海岸の記述に興味を惹かれる。オマーンのドファール地方やマスカト、スールにはついこの間行ってきて、まだ生きているダウ船を見てきたから情景が浮かんで楽しかった。『オマーン紀行』を参照してほしい。早くも次の目的地を思い浮かべて、妄想を膨らましている。

  ☆参照文献:
 ・家島彦一『海域から見た歴史』(名古屋大学出版会、2006年)
 ・Abdul Sheriff "Slaves,Spices&Ivory in Zanzibar"(Tanzania Pubulishing House,1987)
 ・Alan Villiers "Sons of Sindbad"(first published in 1940, Arabian Publising,2006)

(2014年3月15日)






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