読書ノート




読書ノート No.60


 

赤嶺淳編『グローバル社会を歩く』


根本 利通(ねもととしみち)


 赤嶺淳編『グローバル社会を歩く-かかわりの人間文化学』(新泉社、2013年3月刊)。

『グローバル社会を歩く』
 本書の目次は以下のようになっている。
 序 フィールドワークの可能性を拓く(赤嶺淳)
 第Ⅰ部 人間と環境
  第1章 ともにかかわる地域おこしと資源管理(赤嶺淳)
  第2章 自然の脅威と生きる構え(岩井雪乃)
 第Ⅱ部 ことばと社会
  第3章 言語を「文化遺産」として保護するということ(佐野直子)
  第4章 フィールドワーカーと少数言語(亀井伸孝)
 第Ⅲ部 調査と現場
  第5章 「自主避難」のエスノグラフィ(辰巳頼子・辰巳慎太郎)
  第6章 海外研究・異文化研究における調査方法論(浜本篤史)

 本書は存在を知って買い求めたのではなく、著者の一人である岩井雪乃さんからいただいたものだ。ちょうどその翌日にダルエスサラームで岩井さんの講演会があったので、その予習としてまず第2章を読んだ。またその前日に、やはり岩井さんの論文が掲載されている『新生アフリカの内発的発展』も手元に届き、岩井さんの論文を読んだばかりだった。

 さてその第2章である。大学で動物生態学を学び、「野生の王国タンザニア」で協力隊員を経験した著者は、野生動物の近くで暮らす人びとの生活を知りたいと大学院に入った。そして、1996年からセレンゲティ国立公園のすぐ外側のイコマ地区の村でフィールドワークを始めた著者に村人たちは問うた。「あなたが本を書きたいのはわかった。それで、わたしたちの生活はどう変わるの?」

 セレンゲティ国立公園は英領植民地時代の1951年タンザニア初の国立公園に指定され、1981年にはユネスコの世界遺産にもなった。ケニア側のマサイマラと共通の生態系を形成し、150万頭ともいわれるヌーのマイグレーション(大移動)で有名である。著者がイコマ地区で調査を始めたころ、そこの住民(イコマ民族)は「密猟者」「自然保護の敵」と見なされていた。著者も西欧的な自然保護の思想を持っていたから、そういう先入観はあったという。

 しかし、国立公園に指定され、人間が追い出されるまではセレンゲティは「野生の王国」でもあったが、「人間の大地」でもあった。イコマの人びとの伝承、語りからだけでも、近隣のイセニェ、ンゴレメの人びとと付き合い、南のダトーガには干ばつ時の祈祷を頼み、西のスクマとはヌーの干し肉や尾を交易していた。マサイとは家畜をめぐり敵対関係であったらしいが。年間700㎜ほどという不十分な降水量では、主食のソルガムの自給も危うい年があり、副食としてあるいは非常時の備えとしての狩猟と農耕・牧畜を組み合わせた複合経済であったという。


野生の王国に群がる観光客

 しかし、1980年代になってワシントン条約など自然保護優位のすう勢になってくると、村人と野生動物たちの距離は遠のいていく。従来頻繁に接触し、畑を荒らす害獣であったり、狩猟対象の恵みであった野生動物との領域が区分されるようになる。そしてそれを超えようとすると公園のスカウトによって逮捕、暴行を受けるようになり、狩猟は隠れてやるものになってしまった。これを著者は「われわれの動物」から「かれらの動物」になってしまったと表現する。

 村人たちと車に乗りあって動物を眺めた時、「あれは脂が乗っておいしそうだ」という村人の視線に気がつく。景色が変わる。「人間より動物が大事なのは不条理だ」と思い出す。学位を取得し、得た職が大学のボランティアセンターであった著者は、イコマの村への支援のプロジェクトを始める。その活動は現在試行錯誤のさなかだから、詳しくは書かない。フィールドワークの成果をなんとか還元しようとしている。

 著者のいう「かりそめの共存」がどう可能なのか?狩猟を禁止する代償としての観光収入の分配には不均衡がつきものだ。村人たちには「恵み」が消え、「脅威」が残っているという不満感がある。先進国の人びとのいう自然保護思想はイコマの村人に保護を強制して、自分たちは豊かさの享受を続けようとしていると見られるだろう。先進国の人びとも「豊かさ」とは何かも再考を迫られるだろう。

 2013年はタンザニアでゾウの密猟が大きな話題となった。1日30頭、1年で1万頭のゾウが密猟にやられているという。このままでは絶滅し、生態系は変わるという。先進国の自然保護NGOの圧力を受け、密猟絶滅キャンペーンが開始されたが、わずか1ヶ月足らずで中止になった。軍・警察・公園レンジャーによる作戦が、人権侵害で問題となったのだ。つまり密猟者と見なされた人たちが逮捕されたり拷問され(死んだ人もいた)、財産(家畜)が没収され、家屋が破壊されたという(『密猟一掃大作戦』を参照してほしい)。イコマの村人たちの体験が全国化したということだろうか。

 しかし、2013年にはそれまでの金の輸出に代わって、観光収入が外貨獲得の第1位になったタンザニアである。欧米からの保護の圧力は高く、早晩密猟絶滅作戦を再開せざるを得ないだろう。中国のような象牙輸入国(日本もかつてはかなり、そして現在も多少そこにいる)に責任転嫁するだけでは逃げ切れまい。その過程で、末端の密猟者ではなく、大型の国際密輸シンジケートがあぶり出されればいいのだが。


村に向かうゾウの群れ

 同じ第Ⅰ部の「人間と環境」を構成する第1章では東南アジア海域世界で、強烈なナマコ漁と遭遇したことから始まる。このフィリピンの漁師たちは、国家管理の及ばない(中国とフィリピンなどが領有を争う南沙諸島)で密漁をしているわけだ。そしてここでもワシントン条約が登場し、そこで保護される=資源管理をされる水産資源とその歴史が語られる。ワシントン条約当初の保護対象はシーラカンス以外は淡水魚であったということだ。その後の捕鯨論争には深入りしない。

 この著者が自他とも認める「ナマコおたく」であるのが圧倒的である。能登なまこ供養祭をウェブ記事で見つけて押しかけて行き、翌年はナマコ・フォーラムの座長をやってしまう。いわば強引に当事者の中に入って行っている。資源をめぐる議論は「利用」か「保存」かという二元論ではなく、当事者の歴史・文化の多様性を視野に入れて、英知を結集しようという。宮本常一のいう「世間師(しょけんし)」としての調査者の立場を取ろうとしている。

 第4章には「アフリカと世界の手話話者とともに」という副題が付いている。著者はカメルーンやコートジボワールなど中・西部アフリカを調査する文化人類学者である。その調査対象はろう者であり、調査言語は手話である。アフリカ系アメリカ人のろう者牧師が設立したミッション団体が導入したアメリカ手話を基にして、中・西部アフリカのフランス語圏に普及していったフランス語圏アフリカ手話というのがよくわからなかった。それは英語ベースなのか、フランス語ベースなのか、私には手話の基礎知識がないのでなかなか理解できなかった。著者の以前の論文を読んでなんとか理解できたように思っているが。

 著者のテーマはフィールドワークをおこなう調査者と少数言語の話者との関係のあり方ということだ。多言語の共存という場合、少数派の言語は普通多数派の言語に包摂・同化されていく傾向にある。手話も少数派言語であるが、同化しづらい。そのことは措いておいて、多言語の共存は「共苦」であり、それは多数派の言語にあっても苦痛・不利益はあるのだという表現は、理論的にはわかる気もするが、現実感覚としては英語を母語とする人たちの存在を思うと拒否したいような気がした。


オクシタン語のデモ行進(2009年)

 第Ⅱ部は「ことばと社会」と題されており、もう一つの第3章は珍しい(と私には)思える対象を扱っている。2008年にフランス憲法の修正で「地域諸言語はフランスの文化遺産に属する」とされた中身を検討している。「危機に瀕した言語を保護する」ということの持つ政治性。近代国民国家の代表とされるフランスにおいて、南フランスに存在し、2世紀にわたって危機に瀕し続けてきた言語とされてきたオクシタン語の例を挙げている。

 第5章では自主避難民というものを、東ティモールの独立戦争の際に発生した避難民と、20011年3月の震災・原発事故の結果発生した福島からの避難民とを比較しながら考察している。ちょっとびっくりした比較ではあった。東ティモール難民の帰還を支援するUNHCRと支援される避難民の認識のずれを指摘する。それは国境の自明性を問い直すことでもある。そして移動ではなく定住を「定常」とする「定住バイアス」によるものだとして、移動の権利をいう。

 第6章は私のもつフィールドワーカーというイメージからいうと異色の文。社会学、社会調査の方法について論じる。通訳を使用することは考えたらありうることだろう。「言語の選択自体がもつ権力関係」という表現も、自分の日常を見直すと感じられることがある。

 本書の著者たちはかなり踏み込んだ若い世代のフィールドワーカーたちである。若いといっても、どっぷりと1年間フィールドに浸かっていられるような大学院生ではなく、フィールド経験20年近い中堅の研究者である。先輩のフィールドワーカーのように文献を読み、フィールドで参与観察をしていた世代とは少し違うようだ。

 第1章では「世間師としての調査者」という。第2章では「フィールドワーカーの応答責任」を語る。第3章では「利用価値がある…話者=活動家=社会言語学者のひとり」だという。第4章では「当該言語の話者たちの権利を擁護し、幸福追求に資する」という実践をしている。

 編者があとがき書いているように、「グローバル社会」のなかでのフィールドワークの可能性の再確認なのだろう。「フィールドワーク=調査者による搾取」批判を乗り越え、政治性、権力性の自覚をもち、研究対象に感情移入しながら行動してきた成果還元の手法を議論している。つまり、研究者・運動家という二項対立ではない、「わたし」の立ち位置の確認なのだ。

*写真はすべて本書のなかから。

☆参照文献:
 ・岩井雪乃「自然保護への抵抗としての内発性」
  (大林稔・西川潤・阪本久美子編『新生アフリカの内発的発展』、昭和堂、2014年)
 ・岩井雪乃『参加型自然保護で住民は変わるのか』(早稲田大学出版部、2009年)
 ・亀井伸孝「アメリカ手話とフランス語の接触が生んだ手話言語」
  (梶茂樹・砂野幸稔編『アフリカのことばと社会』、三元社、2009年)

(2014年6月1日)






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