読書ノート




読書ノート No.62


 

C.N.アディーチェ『アメリカにいる、きみ』


根本 利通(ねもととしみち)


  C.N.アディーチェ著、くぼたのぞみ訳『アメリカにいる、きみ』(河出書房新社、2007年9月刊、1,800円)

『アメリカにいる、きみ』
 本書は短編集であり、以下の10編が収められている。
  ・アメリカにいる、きみ
  ・アメリカ大使館
  ・見知らぬ人の深い悲しみ
  ・スカーフ-ひそかな経験
  ・半分のぼった黄色い太陽
  ・ゴースト
  ・新しい夫
  ・イミテーション
  ・ここでは女の人がバスを運転する
  ・ママ・ンクウの神さま

 著者のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェは、1977年ナイジェリア生まれの若手女性作家。現在はアメリカ合州国在住で、ナイジェリアと往復しているらしい。くぼたのぞみさんの翻訳で日本にも何作か紹介されている。

 チヌア・アチェベと同じイボ人であるということで、ビアフラ戦争を扱った『半分のぼった黄色い太陽』という長編を読んでみた。長編であり、重たいテーマであるにもかかわらず、一気に読了した。その語り口に惹かれて、今回の短編集を読んでみた。

 本書は短編集であるが、最初そういう形で出版されていない。訳者であるくぼたのぞみさんが著者と相談しながら編み、日本で発行された短編集である。そういう出版のやり方もあるのだ!それぞれの短編が発表されたのは2001~04年の間だが、その間に書き直されたものもある。例えば表題作である「アメリカにいる、きみ」は、その後書き直されて「なにか首のまわりに」となったし、「スカーフ」は新バージョンでは「ひそかな経験」となったらしい。本書のタイトルを見ると訳者の好みが出ていることに気がつく。著者と訳者との共編というか、あるいは著者の柔軟さの表れか。

 小説なので、あらすじの紹介は避けよう。物語の舞台はアメリカ合州国東部が多く、出稼ぎ、あるいは移住してきているナイジェリア人の目を通して語られているものが5編ある。表題作もそうだ。しかし、ナイジェリアから根がなくなったわけではなく、頻繁に電話したりかかってきたり、夫や本人あるいは親しい友人たちが往来しているので、最新の情報はすぐ入る。1編はジャーナリストの夫が言論弾圧で国外に亡命し、自身(妻)がアメリカ合州国に難民ビザを申請しようとする話。ここでも移住目的地は米国であって、英国ではない。英国に見合いに赴く話もあるが。



 3編はビアフラ戦争の前・最中・後を描いている。うち『半分のぼった黄色い太陽』のテーマが拡大されて長編になった。もう1編はイボ人の父と英国人の母の間に生まれた娘が、父方の祖母に短期間だけ預けられ、イボ文化の洗礼を受ける話である。祖母が隠れて祈っていた神の彫像を孫娘が大事に保存している。

 短編なのだが、それぞれに物語性が含まれ、またしみじみとした心のひだが描かれている。「アフリカ人的に豪快で陽気」なんていう根拠のない先入観とはかなり違う味わいだ。単にストーリーテリングの天賦の才能では済まされないだろう。

 これからアフリカ文学の定義はどうなっていくのだろう。「アフリカ現代文学の父」チヌア・アチェベやグギ・ワ・ジオンゴが議論していた時代からはもう半世紀経った。ユーロアフリカン文学とか、アメリアフリカン文学というのが登場しつつあるのだろう(文学上の定義はよく知らない)。アディーチェは将来もアメリカ合州国に本拠を置いて創作活動していくのだったら、アフリカ文学という範疇には入らないのかもしれない。

 例えばチヌア・アチェベもグギ・ワ・ジオンゴも後半生はアメリカ合州国に居を構えて活動していた。本国に帰らないことはなかったが、訪問のレベルだったのだろう。しかし、彼らは植民地時代の経験を持ち、少青年期にイボ人(ナイジェリア人)、ギクユ人(ケニア人)としての自己形成を遂げている。今後のアディーチェはイボ人としてのアイデンティティを持ち続けるだろうか?それともそんな小さな関心をするりと乗り越えて、もっと大きな世界に羽ばたいていくのだろうか?


『半分のぼった黄色い太陽』

 ただ、本短編集でもよくわかるのだが、著者が属するのはナイジェリアの裕福な階級だということだ。簡単にアメリカ合州国に出稼ぎし、移住を図ったり、本国との往来を繰り返す。イボの人びとがビアフラ戦争で痛めつけられ、政治権力からは遠ざけられたとしても、この短編集の登場人物は特権階級とはいわないまでも、恵まれた人たちであることは間違いない。イボランドに住む普通の農民たちはそうはいかないだろう。アディーチェの経歴を見ても、大学教授の父と大学職員の母の間に生まれ、大学町スッカ(チヌア・アチェベが教鞭を執っていた町)で育つという知的環境にいた。そして奨学金を得て合州国に留学したエリートである。

 物語に感動しながら、こんないちゃもんのようなことを言うのは「訳者あとがき」のなかで、著者があるインタビューで、次のように述べていることが紹介されているからだ。

 「リシャルド・カプシチンスキのような人が、多くのアフリカ人はそうは思わないのに、アフリカのあらゆることをめぐる決定的な声だとされるのは本当に困ります。西側諸国の人びとは、西欧文化の色眼鏡でアフリカを見たがるのをやめて、複雑に入り組んだあらゆることを含めて、アフリカ人の目線を通して等身大のアフリカと向き合ってほしいと思います。」(P.248)。

 カプシチンスキというのはポーランド人のジャーナリストで、特派員時代(1956~72年)主としてアフリカ大陸を中心に活躍し、ダルエスサラームやラゴスにも駐在した。ザンジバル革命の現場証人でもあるし、1966年のナイジェリアの2回のクーデターも取材している。その作品は、『黒檀』で読んだが、上質なルポルタージュ文学で感銘を受けた。文学であるから虚構や誇張はあるだろう。西欧でカプシチンスキの作品がどう評価されているのかは知らないが、外国人として自分の体験に限定した謙虚で、かつ多様で豊かなアフリカへの敬愛の深い文章だと思う。

 アディーチェがこう述べる正当性をずっと保持していけるか、彼女の感性がアフリカの人びとの多くの部分を代表していけるだろうかというのを見てみたいと思う。アフリカはもっと多様で、アディーチェが代表するものもその一部でしかないのではないかというのが、私の本音である。そしてアディーチェの視野に、アフリカと対峙するものとして西欧文化しか入っていないとしたら、それはアチェベの時代と変わっていないということで寂しいと思う。次はやはり邦訳の出ている『明日は遠すぎて』を読んでみよう。

☆参照文献:
 ・チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著、くぼたのぞみ訳『半分のぼった黄色い太陽』(河出書房新社、2010年)
 ・リシャルト・カプシチンスキ著、工藤幸雄・阿部優子・武井摩利訳『黒檀』(河出書房新社、2010年)

(2014年7月1日)






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