読書ノート




読書ノート No.67


 

重松伸司『マラッカ海峡のコスモポリス ペナン』


根本 利通(ねもととしみち)


 重松伸司『マラッカ海峡のコスモポリス ペナン』(大学教育出版、2012年3月刊、1,800円) 

『マラッカ海峡のコスモポリス ペナン』
 本書の目次は次のようになっている。
  第1章 ビンロウと植民者
  第2章 アジールの島
  第3章 コスモポリス誕生
  第4章 移民マフィアの時代
  第5章 日本人町、彼南市の興亡
  第6章 アルメニア商人の海峡世界
  第7章 ベンガル湾のインド人海商

 インド洋海域世界のさまざまなコスモポリスが存在しているのだろう。最も身近なのはザンジバルであるが、その遠いインド洋の対岸にある都市としてマレー半島のマラッカを意識したことがある。マラッカを訪ねたことはあるが、その時の旅でペナンにも寄った。当時(30年以上前のことだが)ペナン島は高級ビーチリゾートというイメージで、コスモポリスという関心はなかった。もちろん貧乏旅だったから、旧市街のチャイナタウンのようなところの安宿に泊まったというかすかな記憶だけだ。

 著者は本書の意図をこう述べている。「ペナンの中心都市ジョージタウンはマラッカと抱き合わせで世界遺産となった。…激しい戦争や自然の大災害という記憶を持たない「安息の地、アジ-ル」。…多くのエスニックが共存してきたアジアの近代という時代、そして様々な人々がたどってきた歴史のカタチをまとめてみよう」。

 第1章では、ペナンの語源となったビンロウの樹から採れる香辛料であるビンロウジのこと。1786年にペナンを詐取するような形で占領した英国東インド会社社員フランシス・ライトのこと。そして1826年に成立する英領海峡植民地で、マラッカ、シンガポールと並び砲台を持つ港市という性格を帯びたことを語る。

 第2章では「アジールの島」の説明から入る。アジールというのは、様々な理由で故地を離れた人びとが、安息・安住を求めて避難する空間・場のことらしい。このペナンという島に移住してきたのは、英領インドから建設労働のために贈られた流刑囚、パンジャービーからの防人、華人や南インドからの年季契約移民、マラッカを追われたカトリック教徒、南インドの海商、アルメニア商人などだそうだ。ユーラシア人と呼ばれた人たちもその中にいた。



 第3章では、きわめて狭い空間に凝集された「近代アジアの人工都市」に共存するエスニック・コミュニティを概観する。マレー系、中国系、インド系、その他と大別される。地元のマレー系以外の外来者として、インドネシア諸島から移住してきたアチェ、ミナンカバウ、ブギスといった移動性の高い海洋民。華人は大人数を占めるが、福建系、広東系、客家系と出身地によって会党を組み、1867年にはペナン大暴動という騒ぎを起こした。南インドからはヒンドゥー教徒「クリン」、ムスリム海商「チュリア」共に渡海してきている。そして外来の男性と地元の女性との混血の「プラナカン」も存在する。

 第4章では移民マフィアとやや刺激的な名前になっているが、専ら華人およびインド人の移民たちを仕切る結社、会党、組織に触れる。英国植民地政庁は、移民集団の頭目のカピタンという肩書を与え、かなりな程度の自由を与えるとともに、その統制を委託したという。華人の移民集団は福建系、広東系、客家系など同郷の互助組織である会党を作り、かつお互いに抗争対立した。背景には、徴税請負権、アヘンや錫の交易の独占などの利権があり、1867年のペナン大暴動が起こった。明治維新と同じ年だ。20世紀に入ると客家系華人である孫文がペナンにしばらく仮寓して、辛亥革命の謀議をしていた。一方インド人移民集団は大きく分けて、ヒンドゥー教徒のクリンとムスリムのチュリアがいた。インド人の頭目をタライ・バンと呼ぶが、英国政庁はそれをインド人カピタンに任用して、華人カピタンの抑止勢力として利用したという。また華人とインド人の集団を利用して、マラッカ海峡の東の南シナ海と西のベンガル湾を押さえる経済的両面作戦を採っていたという。

 第5章ではこのペナンにも存在した日本人街を取材している。19世紀にはポルトガル系ユーラシア人がいたためにシントラ街と呼ばれた地区に、19世紀末から小さな日本人街「ジプン・カイ」ができ、いくつかのホテル、日本人会館もあったという。ペナンは日本名では「彼南(びなん)」と呼ばれていた。住民の過半数はいわゆる「からゆきさん」であったようだ(1891年)。ペナン島に織りなす様々なエスニック・コミュニティとして日本人も存在していた。しかし、第二次世界大戦が勃発し、日本軍がペナン島を占領したことによって大きく変わる。ここでも華人の殉難者が700名以上記録されているとのことだ。

 第6章はちょっと珍しいアルメニア商人の活動の跡を追う。故地からさまざまな迫害を逃れ、家族で移動し、各地で教会と学校を建てながら、また東南アジアのホテル王も生み出しながら、海運・保険・商業などでネットワークを作っていった。インドのカルカッタ、マドラスを本拠地として、ペナン、シンガポールを中継地として、中国、日本までそのネットワークは及ぶ。著者は、横浜の外国人墓地の墓名碑と古い絵葉書を手がかりに神戸の街を訪ねる。

 第7章ではインド人の海商としてチェッティという謎の集団を追う。南インド南部を本拠とする商業カーストで、ベンガル湾周辺の出稼ぎ・移民などを相手に信用に基づいた小規模金融をやっているのだが、その正体は不明で、秘密主義が徹底しているという。



 著者を個人的に存じ上げているのだが、南インドのタミール人の歴史を専門としてやっておられるのだと思っていた。私はインド洋の西海域から出られないまま30年以上が過ぎてしまい、インド洋の東海域のことはほとんど知らない。今回少し興味を持って調べたら、本書に巡り合ったという次第である。硬い学術書ではなく、分かりやすくペナンを往来した民族集団の歴史が描かれていて、30年以上前の旅のかすかな記憶を思い出しながらおもしろかった。

 華人の歴史の流れのなかで孫文が登場したり、インド人集団のクリン、チュニア、チェッティという集団の話も興味を引いた。しかし、予想外に登場してきたアルメニア人集団に注目したのは著者の独創なのだろうか。そして「あとがき」で触れられているようにこの島の「当主」であるマレー人の視点が加わったら、ペナンというコスモポリスの記述は完成するのだろう。「18世紀初めまで、ペナンは一部のマレー系や他のの少数民族による断続的な小規模交易がおこなわれたほかは、うっそうとした野生の森であった」(P.9)とあるが、17世紀以前のペナン島はどうだったのだろうかという憾みはある。

 各地に数あるコスモポリスの社会・歴史は、外来の人びとの視点、記述から語られることが多い。それはコスモポリスという性格から当然なのだろうが、やはり地元の人たちの思いを汲み取りたいと思うのだ。私の身近にあるザンジバルというコスモポリスもそうだ。外来の「進んだ文化」であるイスラームやキリスト教を伝えたアラブ人、ペルシア人、インド人や英国人が残した跡、記述は残っていて、懐かしく語られる。またザンジバル革命で主導権を取ったアフリカ大陸から運ばれてきた旧奴隷の子孫たちも意識される。しかし、元からザンジバル島に住んでいた人たちの形はなかなかというか、ほとんど見えない。

 外来の人びとが渡来するのは交易の利益を求めてが多いだろう。その人たちの持つ経済力(西欧人の場合は軍事力だったが)に惹かれ、物資だけでなく文化・宗教も積極的に受容していく。遠来の船乗りは圧倒的に男性だから、中長期的に居住する場合は、現地の女性と通婚・混血が生じ、文化的同化も早くなっていくのが普通だろう。

 やや疑問に思った表現がある。「イギリスによるペナン領有の150年前、インドネシア諸島を領有していた全盛期のオランダは、1641年にはマラッカを占領した。」(P.33)とあるが、当時はオランダという国家ではなくオランダ東インド会社であった。もちろんイギリス東インド会社のインド進出でも同じことだから言葉尻はいいとして、広大なインドネシア諸島のバタヴィアなどの一部の港市に拠点を持っていたということではないかと思う。海域世界の17世紀における「国家」の概念には要注意だろうと思う。インド洋東海域、そしてマラッカ海峡を越えて東南アジアの多島海まで視野に入れたいとは思うのだが、時間があるかなと焦るのみである。

☆参照文献:
 ・羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社、2007年)
 ・坂井隆「東南アジアのイスラーム港市と陶磁貿易」(村井章介編『港町と海域世界』所収、青木書店、2005年)
 ・永積昭『オランダ東インド会社』(講談社学術文庫、2000年、初版1971年)

(2014年9月1日)






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