読書ノート




読書ノート No.68


 

永積昭『オランダ東インド会社』


根本 利通(ねもととしみち)


 永積昭『オランダ東インド会社』(講談社学術文庫、2000年10月刊)。

『オランダ東インド会社』
 本書の目次は次のようになっている。
  まえがき 
  1. 香料への道
  2. V.O.Cの誕生
  3. 征服者ク―ン
  4. 日本貿易
  5. 陸にあがる
  6. 塗り込めた首
  7. ジャワの支配
  8. 落日
  むすび

 原著は1971年に近藤出版社から刊行されており、もはや古典と言ってもいい本書であるが、初めて読んだ。海域国家の歴史という観点で、インド洋の東海域を少し覗いてみようという気持ちからである。

 第1章では、いわゆる「ヒッパルスの風」といわれた季節風を利用した貿易が紀元前より続いてきたことを概観している。そのなかでインドの綿織物、インドネシアなどの香料、中国の絹織物などの特産品などが交易され、日本も時代がさがってからその交易網の一角に参入した。中継地としてのマラッカ王国の繁栄と、16世紀初頭それを襲ったポルトガル、香料産地のマルク諸島に到達したスペインの出現と、当時のインドネシア情勢を述べる。

 第2章では、世界最初の株式会社といわれるオランダ東インド会社(V.O.C)の誕生を語る。16世紀後半に始まる対スペイン独立80年戦争の過程で、アムステルダムが多様な民族・宗教・階級を受け入れた国際都市となっていく様子を描く。新大陸の銀をスペイン経由で毛織物で吸収したオランダの商業資本は、東インド貿易のポルトガルの独占を打破しながら、1602年東インド会社を設立する。その2年前に設立されたイギリス東インド会社の資本金の10倍以上であったという。、

 第3章では、第4代総督であったク―ンを中心に、初期の東インド経営を描く。ク―ンはユダヤ人説もある辣腕の人で、若くして事務総長、そして2回総督を務め、ポルトガル、イギリス勢力を削ぎ、バンダ諸島鎮圧、アンボンの虐殺を実行し、オランダの東インドでの地位を固めた。一時途絶えたが、オランダ自由市民の導入を図ったことも注目に値する。この時代、東部ジャワではマタラム王国が台頭したが、基本は農業国で貿易に関心は低かったのがオランダ東インド会社に幸いしたという。この時代にバタヴィア(ジャカルタ)が町として形成される。後任の総督ファン・ディーメンの時代に、ポルトガルからマラッカを奪った(1641年)。

 第4章では、東インド会社の日本貿易を述べる。日本史でいう鎖国時代、長崎でオランダとだけ(中国は別扱いされるのが普通)貿易したというやつをオランダ側から眺めている。ここでもポルトガル、英国を追い落とし、ヨーロッパ人としては独占を果たすのだが、その江戸幕府側の事情は措いておこう。ただ喜望峰以東の東インド会社の商館の収益としては、長崎が最高のものであったというのは興味深い。日本へ生糸・絹織物を輸出し、代金として銅・銀・金が流出した。




















 第5章では、それまで港とその周辺だけを支配し、貿易による利潤のみを追求していた東インド会社が、17世紀後半には次第に領土支配に転向していく様を記す。これには東部ジャワのマタラム王国、西部ジャワのバンテン王国における反乱・内紛が絡むのだが、東インド会社それに乗じて2カ国を監督下に置き、17世紀末にはジャワ島全体を把握する。そして領土に、砂糖、茶、棉、藍、ゴムそしてコーヒーといった商品作物を栽培させるようになっていく。

 第6章では、18世紀に入り領土植民地として拡大していく過程を追う。マタラム王国の2度にわたるジャワ王位継承戦争の乗じて、東インド会社は領土を拡大し、王国を属国状態に置く。また同盟者であったマドゥラ島の領主をもケープ植民地に追放し、ジャワ島を支配権を深化させる。その過程で(ドイツ系)エルベルフェルト陰謀事件(1722年)や華僑暴動(1740年)を鎮圧している。「エルベルフェルトの首」という金子光晴の散文詩が挿入されている。

 第7章では、1743年に総督に就任したファン・イムホフによる東インド会社改革案を分析する。着実に商社から植民地経営に向かっているように見えた会社も、商人と国家元首の二足のわらじに耐えかねていたらしい。というか、反乱の鎮圧まどの軍事費の負担が、会社財政を圧迫していたのだ。私貿易の一部公認や、市民による土地耕作の奨励(植民)などの改革案の中に、教育制度の創設も挙げられてる。これは逆に総督府がいかに教育に無関心であったかを物語っているとする。その後起こった第3次ジャワ継承戦争によるマタラム王国三分割や、バンテン王国の内紛に介入して、有力二王国を保護領化、残った東部のバリ人の居住地域も鎮圧して、オランダがジャワ島を完全に制圧したのは1772年だった。

 第8章では、1799年のオランダ東インド会社の解散に至るまでを描く。17世紀半ばに最盛期を迎えたオランダは、18世紀は停滞の世紀という。インドネシアだけを見ているとオランダの支配権が浸透していっているように見えるが、18世紀のオランダは3次の蘭英戦争などの影響で、人口減少、漁船の減少、造船技術の停滞、畜産・毛織物業の衰退などから、商業・金融の中心地の位置をロンドンに奪われてしまう。18世紀末、ファン・ホーヘンドルプの自由主義的主張、会社解消論は否定されたものの、フランス大革命の大波の中で、200年の歴史に終止符を打った。



 「まえがき」の冒頭には次のように書かれている。「この本の題をつけるにあたって、ずいぶん考えた」。題はなんの変哲もないものだから、何を?と思ってしまう。しかし、さらに次のように言う。「今までの文献が「オランダ」という部分をゴチック活字で組んだような感じに出来上がっているのに対して、この本は「東インド」の方をゴチックで組んだ感じといったらお分かりいただけよう」。「こけおどしに大きいくせに、がらんとしてひと気のない、鉄道の廃駅。今はどの急行も通過する駅。オランダ東インド会社はいつも私にそういうものを連想させる」(P.8)。

 著者の執筆の意図は明確である。17~18世紀のインドネシアの歴史を、支配された(インドネシア)側の視点から描こうという試みだろう。ただ、巻末の解説で指摘されているように、時代の制約もあり、インドネシア側の史料は乏しいし、かつ文献史料に頼りすぎの憾みはある。本書が出て40年以上が経過したわけだが、現在のインドネシア史の叙述はどこまで進んだのだろうか。これは東アフリカ海岸の民衆の歴史を描きたい私にとっての関心事でもある。

 第6章で述べられている1632年のバタヴィア市民の民族別人口調査を見ると、コスモポリスの萌芽が感じられる。港市は多かれ少なかれコスモポリスなのだ。そしてコスモポリスと横文字で書くと何か格好いいモダンな感じがするが、もともと港市というものは陸域の国家に収まらない流れ者の吹き溜まりという性格がついてまわったのだろう。この時代の日本人に傭兵という性格があったようだし、多民族共生というより雑居、階級・職業の分化・格差など、民族的な対立・暴動の可能性を常に内包していたのだろう。ザンジバルやペナンなどでもそうだった。

 同じ第6章に挿入されている金子光晴の散文詩であるが、1932年にジャワを訪れた時の作品である。オランダによる植民地社会を眺めた日本人の視点はどこにあったのだろうかと気になる。スカルノたちによるオランダに対する独立運動はすでに起こっており、太平洋戦争では大日本帝国はそれを利用したわけだが、徹底して反帝国を貫いたといわれる詩人の目に、さらされた陰謀者の首は植民地支配崩壊の予兆に見えたのだろう。



☆地図は本書掲載のもの。 

☆参照文献:
 ・重松伸司『マラッカ海峡のコスモポリス ペナン』(大学教育出版、2012年)
 ・フィリップ・カーティン『異文化交易の世界史』(NTT出版、2002年)

(2014年9月11日)






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