読書ノート




読書ノート No.72


 

David P.B. Massamba 『Kiswahili Origins and the Bantu Divergence-Convergence Theory』


根本 利通(ねもととしみち)


 David P.B. Massamba 『Kiswahili Origins and the Bantu Divergence-Convergence Theory』(Institute of Kiswahili Research、2007年刊) 

『スワヒリ語の起源』
 本書の目次は次のようになっている。

第1章 スワヒリ語の起源に関する視点
第2章 スワヒリ語のバントゥー構造
第3章 スワヒリ語の出現:いつ、どこで?
第4章 スワヒリ語と民族性

 著者はダルエスサラーム大学の言語学者である。70年代からダルエスサラーム大学で行われていた、「スワヒリ語はどのように出現したか」「それはいつ、どこで?」という論争を簡単に総括し、説明するためのペーパーである。

 まず、第1章でスワヒリ語の出現に関して、「外来のアラビア語基本説」を軽く一蹴する。これは全く問題ないだろう。イスラームを宗教としてではなく文化慣習としてのスワヒリ人のアイデンティティに結びつけようとするマズルイやシャリフの考えにも疑問を呈している。

 また、フリーマン・グレンヴィルやグレイの唱えた混淆言語説も否定する。アフリカ起源のアラブのクレオール共同体として始まったとか、ピジン言語から始まりクレオール語に発展したという考えも否定し、スワヒリ語はバントゥー語であると主張している。

 第2章では、スワヒリ語のバントゥー語としての文法的な特徴を説明している。
①スワヒリ語の基本語彙は他のバントゥー語と共通のものがあること。
②スワヒリ語の語形、音韻、統語のシステムは典型的なバントゥー語であること。
③スワヒリ語の名詞のクラスは原バントゥー語を想起させること。
④より古いスワヒリ語の方言には他のバントゥー語との共通語が多いことを挙げている。
言語学者ではない人間にはコメントは無理だろう。

 第3章ではその起源、いつ、どこでを検証している。スワヒリ語以前の原バントゥー語の起源について諸説を紹介している。ジョンストン説(西アフリカ→アルバート湖、ニャンザ地域)、グリ-ンバーグ説(ナイジェリア・カメルーン国境地域)、グセリエ説(ザンビア・コンゴ国境地域)である。これについては深入りしない。

 さて、スワヒリ語の出現の時期であるが、紀元100年ころ、つまりバントゥー語の人びとが東アフリカに到達した時期を採るか、それ以降を採るかで大きく分かれる。以降の説の中でも、3~6世紀説、5~11世紀説、6~12世紀説があるようで、これは東アフリカの遺跡発掘で見つかる陶器の年代と関連している。ナースとスピアによれば800年ころとされるが、これは北部ケニアのラム諸島での発掘に基づいている。しかし、その後のタンザニア海岸の遺跡での発掘が進むにつれ、年代はより遡りそうだという。

 発祥の場所について、著者は5つの仮説を列挙している。①大シュングワヤ仮説、②ンゴジ仮説、③北東ケニア仮説、④ラム群島仮説、⑤同時発展仮説である。①~④はすべてラム群島もしくはその周辺を起源としているので場所としては大差ない。言語の起源をどのバントゥー語に求めるか、あるいはシラジ的な混淆説、ピジン説に拠る。そのなかで著者がまともに検討しているのは④だけである。ナースとスピアによって主張されたこの仮説は、9世紀にラム群島に存在したスワヒリ語が、その後北方(ソマリ海岸)、南方(ウングジャ、キルワ)に広がっていったとする。しかし、著者は最近の発掘結果などからいって、否定できるとしている。

 著者が主張するのは⑤である。つまり、「同時発展仮説とバントゥー語の分岐と収束理論」であり、これが本書のタイトルになっている。これは必ずしも著者が最初の主唱者ということではなく、フリーマン・グレンヴィル(1959)やローランド・オリヴァーとガーヴァス・マシュー(1963)といった先人がいる。発祥地をラム群島・タナ川渓谷では広すぎる。島の中でもいくつかの方言があるし、同一起源でも言語の分離、(再)統合は起こりうるというのだ。

 バントゥー語族の離散(ディアスポラ)は紀元前2千年紀から始まった。紀元前後にすでに東アフリカ海岸に定住し、ぺルシア人、アラブ人、インド人、中国人といった外来者とではなく、お互いに交易をしていた。そのなかで原スワヒリ語の成立し、方言の分化が始まった。ムタンガタ語、ヴウンバ語、ンガアレ語、チフンディ語などの研究が進んでいるという。著者はカエ語、チフンディ語、ペンバ語、ムウィイニ語の例文を挙げつつ、4つのバントゥー語に見えるが、スワヒリ語の4つの方言であって、収束は連続的であるという。「いとこ対はとこ言語仮説」といい、はとこでもいとこを通してお互いに影響しあうので、違う言語→方言→スワヒリ語という図式が成り立ち、スワヒリ語は海岸のさまざまな場所で同時進行で発展して成立した言語であると結論づけている。


東アフリカ海岸

 第4章では、「スワヒリ人(Waswahili)とは誰か」を論じている。スワヒリ語を話すスワヒリ民族がいたわけではない。そして、自らをほかの人たちと比べてより「スワヒリ人」とみなす人たちの存在があった。彼らは部族(Kabila)ではない。共通の祖先、信仰、言語、慣習、踊りなどを持たない。ではその定義は何かという論争になる。

 エドワード・ステア(1870)のいう「ニグロとアラブの混血」、スティガンド(1913)のいう「狭義には片親がアラブもしくはペルシア」という混血に基づくものとする解釈が古典的だろう。しかし、スティガンドは広義にはスワヒリ語を話す人間全般という定義も認めている。

 プリン(1967)は、それはコンテキストにより、海岸地帯でも内陸部でも、ムスリムでスワヒリ語を話す人間はすべてであり、必ずしも血筋にはこだわらないという。それは自称であり、アラブ系などの高い社会的地位の人からすると劣位の人たちの呼称ともなりうるとする。

 マドシ(1971)は、アラブとの混血、都会、外交的、嘘つき、ムスリム、海岸在住、スワヒリ語という特徴を挙げている。そしてそれは西洋人の人種主義や内陸部の人の海岸の人への反感を反映しているという。サリム(1973)は「スワヒリ人」とは、アラブ、ペルシア、バジュンの子孫であって、混血ではないという。

 イブラヒム・ヌール・シャリフ(1973)は、スワヒリ語は様々な言語共同体と同じく9つの方言を持つ緩やかな海岸地方の人びとの言語で、そこには共通の文化があり、それを持つ人びとを「スワヒリ人」と見なした。しかし、ここでコンゴ東部で話されているキングワナ方言をどう扱うのか、共通のスワヒリ文化とはなんなんだろうか?という疑問が起こる。漁民、精神文化(魔よけ、成人儀礼など)、生活様式(婚姻など)も必ずしもスワヒリ人に限定されるものばかりではなく、却ってアフリカ内部のそれと共通するものも多く見られる。宗教はもちろん含めない方がいい。

 イブン・バットゥータ(1331)が初めてスワヒリ語、スワヒリ人に関して記述したと誤解されているが、その著作には「サヘル(Sahel)の土地」と表記してあり、それをフリーマン・グレンヴィルが「スワヒリの土地」と翻訳したのだ。従ってスワヒリという概念は、比較的新しいの呼称なのだ。では、適正な定義とはなると依然として難しい。一つのはっきりした民族共同体(Tribe)とは結びつかないことははっきりしている。その使われる文脈によるだろう。さらに?

 言語学的な分析については私はお手上げだが、スワヒリ人の定義については著者と意見を異にするかもしれない。著者は内陸部のクリスチャンとしての自意識が強いのではないか。狭義のスワヒリ人としては、民族的な起源、混血という要素は措くとしても、やはりイスラームという要素を無視できないと思う。それが本人たちの自意識、それを眺める他人からの目を規定していると思われる。今年(2014年)のタンザニアの制憲議会での論戦で、はからずも内陸部の人間とザンジバル人との人種・民族意識の差、さらにいうと差別観が露呈したように感じている。

☆地図は本書から。

☆参照文献:
 ・大川真由子「アフリカ系オマーン人の文化的適応」(『アジア経済』XLVⅡー3、2006年)
 ・James de Vere Allen "Swahili Origins"(James Curry Ltd.,1993)
 ・Felix A. Chami "The Unity of African Ancient History"(E&D Ltd.,2006)

(2014年10月20日)






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