読書ノート




読書ノート No.24


 

マーク・トゥエイン『レオポルド王の独白』


根本 利通(ねもととしみち)


 マーク・トゥエイン『レオポルド王の独白』(佐藤喬訳、理論社、1968年9月刊、480円)

  藤永茂『「闇の奥」の奥ーコンラッド・植民地主義・アフリカの重荷』(三交社)の読書ノート「読書ノート」第20回」の際に、次のように書いた。
 マーク・トゥエインの『レオポルド王の独白』も同じく40年前に知り、読み出したが、途中で断念した記憶がある。その理由は自分なりには説明がつくのだが、ここでは述べない。
 藤永氏の著書を読んだのをきっかけとして、40年ぶりに読み直してみようということになった。

『レオポルド王の独白』
 本書の原題は「KING LEOPRLD'S SOLILOQUY」であり、1905年の刊行である。邦訳の副題には「彼のコンゴ統治についての自己弁護」となっている。その目次は以下のようになっている。

  はしがき*シュテファン・ハイム
  コンゴ侵略略史*野間寛二郎
  原書のさしえと写真
  レオポルド王の独白*マーク・トゥエイン
  著者あとがき
  付録

   まず、作品本体から触れたい。

 ベルギー王レオポルド2世が私室のなかで、さまざまなパンフレット、報告書、新聞の切抜き、写真などを見ながら、悪態・罵倒の言葉を吐きつつ、手にもった十字架に口づけし詫びることを繰り返す。その中で、レオポルド王がコンゴで犯している罪業が浮き彫りになっていくしかけである。時は1905年のようだ。

 その中で暴かれているレオポルドの悪業は、このベルギー本国の78倍の広大な私有地(コンゴ自由国と呼ばれた)の住民に重税を課し、そのために鉄道や道路建設の苦役に駆り出し、あるいは象牙やゴムをもってくることを要求し、ノルマを果たさないと罰を与える。その罰とは例えば片腕の手首を切り落とすというような残酷な仕打ちである。ベルギー国軍ではなく、レオポルドや私企業の私兵であるアフリカ人兵士には、弾丸が支給されるのだが、兵士たちがその弾丸を私的に流用する(例えば野生動物を狩猟する、横流しするなど)ことをさせないために、アフリカ人の手首を持ち帰ることを要求したという。この結果、反抗した男たちはもちろん、その男たちを働かせるために女子どもたちを人質としたり、見せしめのために殺害することも行われた。処刑されたり、餓死したり、密林に逃亡したり…、2000人いた村に200人しか残っていなかったり、廃墟になったりした。レオポルドの支配の間、コンゴの住民は2500万人から1500万人に激減したといわれる(数字は推定)。コンラッドの『闇の奥』で描かれている世界である。

 レオポルドはアフリカ分割のベルリン会議の直前の1884年4月、アフリカ大陸の領土利権にあまり関心のないアメリカ合州国を巻き込み、コンゴ国際協会(コンゴ自由国の前身)を承認させることに成功する。「原始的で蒙昧なアフリカ人にキリスト教の福音を伝え、文明化する偉大な君主」というイメージを売り込む。しかし、その後コンゴで宣教活動をした多くの宣教師(英国人、アメリカ人など)によって、コンゴの実態が報告され、その偽善的な宣伝を暴かれ、モレルやケースメントなどによるコンゴ改革協会による激しい批判にさらされている状況である。

 レオポルド王は政治家、資本家、新聞記者、宣教師などを買収して自己弁護の宣伝を試みるが、カメラに負けてしまう。つまり、手首を切り落とされた女や子どもたちの写真が証拠として提示されてしまうのだ。当時発明されて広がりつつあったイーストマン・コダックのカメラを使った英国人宣教師ハリスの妻アリスの撮った写真である。1900~03年の撮影とされる。トゥエインのこの本にもいくつか載っていし、映画『地獄の黙示録』にも援用されている。実はこの写真が、40年前、私の読了を阻んだ原因だった。


原書のさしえから「レオポルド2世」

  はしがきは、この50年間以上人目に触れず、いわば禁書扱いだったこの本を、1961年東ドイツで復刻した人の序文。本作品を帝国主義批判として紹介している。

 コンゴ侵略略史は、1960年代当時の日本のアフリカ研究をリードした野間寛二郎さんによる解題。1482年のポルトガル人のコンゴ河口への来航から始まる大西洋奴隷貿易から解きはじめる。リヴィングストン、スタンリーと来て、レオポルド2世とスタンリーの結託を述べる。そして1960年の独立後のコンゴ動乱でルムンバが虐殺されるまで、レオポルド2世の亡霊は払拭されてないとする。

 付録は四つあり、最後の「マーク・トゥエイン略伝」は訳者が記したものだが、それ以外の三つは初版本に著者が付けたものと思われる。Ⅰの「王の派遣せるコンゴ視察団報告書抜粋」ではレオポルド2世が人選した視察団の報告書ですら、悪業は隠せなかったことを示す。Ⅱの「アメリカ合州国政府とコンゴの関係」では、アメリカ政府がレオポルド2世に手玉に取られたことを示す。Ⅲの「レオポルド王は絞首刑に処せられるべきか」は宣教師ハリスへのインタビュー記録で、清教徒革命で王の首を落とした英国とその延長にあるアメリカ合州国の視点が見られる。

 さて、読後感というものは特にない。藤枝茂『「闇の奥」の奥』を最近読んだことだし、既読感はあった。文学作品としてではなく、同時代史料として読んでいる。この時期のコンゴを描いた著述として入手しやすいのは、スタンリー、アラブ(ザンジバル)の商人ティップティプ、そしてコンラッドによるものだろう。スタンリーは1874~78、79~84年、ティップティプは1870~82、83~86、87~90年(要確認)、コンラッドは1890年にコンゴに滞在している。

 レオポルド2世の悪業が暴かれ、批判されだすのは1890年である。コンラッドの『闇の奥』の刊行は1899年。コンゴ改革協会の創立が1904年3月である。そしてマーク・トゥエインによる本書がボストンで出版されたのが1905年(ロンドンでは1906年)。1908年ベルギー議会は、コンゴ自由国をレオポルド2世の私有地からベルギーの植民地に移行する議決をする。その翌年、レオポルド2世は死去する。74歳であった。コンゴ略奪の盟友スタンリーは、その前1904年5月に亡くなっているから、激しいコンゴ自由国非難はぎりぎり知らなかったのかもしれない。

 ティップティプが、象牙と奴隷狩りによって富を蓄え、東部コンゴに私的な王国を形成していたのが、1870年代前半~80年代前半である。その後はスタンリーと組んだり離れたりしながらも、ベルギーの進出(コンゴ自由国)の下に組み込まれ、1880年代後半東部コンゴの総督となっていた。『闇の奥』のクルツが象牙狩りに狂奔していたのが1880年代後半となる。そのころの東部コンゴには象牙は豊富にあり、アラブ人とベルギー人が奪い合っていた。1890年にティップティプがザンジバルに戻った後、息子のセイフや子飼いの部下たちがキサンガニ(スタンリーフォール)を本拠に東部コンゴを支配していたが、1892~3年のベルギー人との戦闘に敗れ、追い出されてしまう。

 ティップティプの部下のアラブ人たちは現在のタンザニア本土に逃げ帰るが、そこもすでにドイツ領東アフリカと化し、本拠のザンジバルですら英国の保護領とされていた。東アフリカにおけるアラブの時代は終わっていた。そしてコンゴでは「奴隷貿易を廃絶し、キリスト教文明を広める」という大義のもと、レオポルド2世による資源略奪が行われ、マーク・トゥエインが描いた世界が進行した。

 少し時代は下がり、アンドレ・ジイドが1925~26年の旅を『コンゴ紀行』に残している。ジイドはこの本を「ジョセフ・コンラッドの思い出に」ささげているし、『闇の奥』に描かれた世界のその後に興味をもっていたことは明らかである。旅の途上でも、何回か『闇の奥』に触れている。

 ジイドが描いたコンゴは、ベルギー領コンゴも少し出てくるが、主としてフランス領コンゴ(ブラザヴィル)であり、旅の範囲はフランス領赤道アフリカ、現在の国名でいえば、中央アフリカ、チャド、カメルーンにまで広がっている。そして時代もコンラッドの描いた時から35年経過している。しかし、それだからこそと言うべきか、レオポルド2世の悪業は、彼個人、あるいはベルギーという小国という性格に帰せられるべきではないというのを浮かび上がらせていると感じる。

 ジイドの美しい自然風景描写や文学的鑑賞を抜きにした引用となってしまう。
 「若すぎて充分に教養のないうちに、あまり僻遠の土地に派遣された行政官は、住民を抑圧するために、一時的な、狂気じみた、破廉恥な力を借りるものだ。恐怖を感じる。気が変になる。自然に具わった権力を欠いているために、恐喝によって支配しようと焦る。」(P.23)

 「(1902年の報告書)一年以上も前から種族の分散が始まった。部落は解散し、家族は離散し、各人はその種族、部落、家族、耕作地を放棄して、徴募者の手を逃れるために、追いつめられた野獣のごとく荒野に隠れ住むのである。耕作地も、従って食物もすでになくなってしまった。」(P.88)

 「(耕作地を放棄することを嫌がった部落に対する制裁)軍曹と三人の護衛兵が部落に着くと早速制裁が始まった。12人の男を樹に縛りつけ、…射殺してしまった。その次に女たちの大虐殺が行われた。…大きなナイフで彼女たちを突き殺した。それからごく幼い子どもを5人捕らえて、それを小屋のなかに押し込み、火をつけた。」(P.103)

『コンゴ紀行』
 ジイドは個人の旅行者、あるいは出版社の依頼で紀行文を書くために旅行したのだろうか?マルクという同行者と共に、各地のフランス人行政官(知事など)の接待を受け、林業(主としてゴム採取)会社の社員と食事を共にしている。いわば行政視察官のような存在だったのか、詳細な行政に関する報告を書いている。その背景はわからないのだが、政府の委託を受けた公的な視察なのか、あるいは高名な作家による文章という影響力に頼った私的旅行だったのか?それにしては出会うアフリカ人が卑屈というか、畏れているように読める。それはジイドのもっている権限のせいなのか、あるいは白人(植民者)のもっていた権力一般なのか。

 訳者による「本書の魅力は、何よりも先に、それが見事な旅行記たるところにある。熾烈な好奇心と、青年のように瑞々しい感覚とが、悲惨な土人の生活や風俗に向けられると共に、…。一流の作家としての自信と責任感が、白人の好意を待ち受けている土人たちの対する温情に満ちた理解となり、愛情となって…」という解説は、1938年という時代的制約は認めつつも、当時の日本人知識人による世界認識を示しているように思う。

 そして、それは次のような連想を私にもたらす。インドの過激派独立運動の志士として日本に亡命したラース・ビハーリー・ボースが、頭山満、大川周明といった日本のアジア主義者と親交を結んでいく。インドに対する英国の植民地帝国主義支配に対する激しい闘士が、日本の台湾、朝鮮、中国に対する帝国主義的侵略に対する批判的な視点から、現実的な戦略的追認に変わっていく。第二次世界大戦前夜の日本の知識人による世界観、文明観の参考資料としても使えるかもしれない。西洋近代の超克のために、中国、インドの思想を学んだが、その先のアフリカまでは視野に入っていなかったという問題につながると思う。夏目漱石は『満韓ところどころ』で何を感じたのだろう。

 本書『レオポルド王の独白』を40年前に手にしたという記憶は正しくないかもしれない。この本の存在を知ったのは、1971年の予備校時代というのは間違いなく、1972年の大学入学と共に入手したと思っていたのだが、もしかしたら1976年の最初のアフリカの旅から帰ってから読み出したのかもしれない。

 当時、アフリカ関係の書物といえば理論社だった。そのAA選書というシリーズには次のような書名が並んでいる。エンクルマ『わが祖国への自伝』、ルムンバ『息子よ未来は美しい』、セク・トゥーレ『アフリカの未来像』、ケニヤッタ『ケニヤ山のふもと』、デビドソン『ブラック・マザー』、シニー『古代アフリカ王国』…ため息のつくようなラインナップである。

 大学生だった私はこのうちの数冊を読んだ。アフリカが解放され、輝ける未来が待っていると信じられていた時代に書かれた書物である。アフリカ人は政治の指導者(皆、独立の父)、西欧(英仏)人のジャーナリストは、アフリカの過去は暗黒だったのではなく、素晴らしい王国があったのだと実証しようとしていた。

 それから40年…アフリカは貧困・飢餓・絶望の大陸となり、国際社会の援助なしには生きられなくなったように見えた。そして2000年代に入り、「最後のフロンティア」として、西欧のみならずインドや中国の資源、食料確保や市場としての注目を浴びだした。「開発」が必ずしもアフリカ人民衆の幸福にはつながらなかった。多国籍企業の天然資源に対する投資が、その利益をほとんど国外に持ち去り、国内のごく一部分の私腹を太らせるに過ぎなかった例を嫌というほど見せられてきた。これからは、アフリカ人の主体性をどこに見出していくのかが、問われているだろう。

☆参照文献:
 ・藤永茂『「闇の奥」の奥-コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷』(三交社、2006年)
 ・ジョセフ・コンラッド『闇の奥』(岩波文庫、中野好夫訳、1958年)
 ・アンドレ・ジイド『コンゴ紀行・正続』(岩波文庫、河盛好蔵訳、1938年。[続]杉捷夫訳、1939年)
 ・中島岳志『中村屋のボース』(白水社、2005年)
 ・Heinrich Brode"TIPPU TIP-The Story of his Career in Zanzibar & Central Africa"(The Gallery Publication,2000)

(2012年10月1日)






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