読書ノート




読書ノート No.90


 

山室信一『キメラ』


根本 利通(ねもととしみち)


 山室信一『キメラ―満洲国の肖像』増補版(中公新書、2004年刊、960円、初版1993年) 

『キメラ』
 本書の目次は次のようになっている。

  序章 満洲国へのまなざし
  第1章 日本の活くる唯一の途
       -関東軍・満蒙領有論の射程
  第2章 在満蒙各民族の楽土たらしむ
       -新国家建設工作と建国理念の模索
  第3章 世界政治の模範となさんとす
       -道義立国の大旆と満洲国政治の形成
  第4章 経邦の長策は常に日本帝国と協力同心
       -王道楽土の蹉跌と日満一体化の道程
  終章 キメラ-その実相と幻像
  補章 満洲そして満洲国の歴史的意味は何であったか

 序章で満洲国に対するさまざまな見方、評価、追憶を瞥見する。満洲国とは傀儡国家の代表でそれ以外の見方は植民地主義者のものしかないと思っていたから、ちょっと引いてしまった。岸信介とか星野直樹というおなじみの名前も出てくる。なぜ著者がキメラという言葉でこの満洲国を表現したかったのかは終章まで待つことになる。

 第1章では「日本の活くる唯一の途」と称して、日本陸軍の関東軍、なかんずく石原莞爾の主唱した満蒙領有論構想を見る。「それが第一義的に満洲国の性格を決定した」(P.21)とする。石原が関東軍作戦主任参謀として赴任したのは1928年10月である。その年の6月に蒋介石の国民党軍による北伐が完成し、張作霖が撤退中に爆殺され、子の張学良が国民政府に帰順した年である。

 満蒙は日本からすれば日清・日露のニ度の戦争で多くの血と国費で購った特殊権益の地であったが、当然中国の主権下にある土地であり、1920年代には山海関の南から毎年数十万単位で中国人が移住してきていた。満蒙三千万と言われたが、日本人は1%に満たず、また日本に併合された後の朝鮮から土地を奪われた朝鮮人が移住してきたり、ロシア革命後の内戦に敗れた白系ロシア人も流入していた。その混沌たる「アジアのバルカン」に蒋介石国民政府は国権回収運動を起こし、反日・排日の空気が充満していた。

 そういう時に赴任してきた石原は、解決策として満蒙領有論を主唱する。それは第一次世界大戦で明らかになった近代戦争の「総力戦化」のためには、満蒙領有だけではなく中国本土の鉄・石炭資源をも手中に収める連邦化まで視野に入れた自給自足経済圏の形成であった。それは領土化した朝鮮の防衛のため、共産主義ソ連に備える軍事拠点というだけではなく、最終的には東西文明のチャンピオンである日本とアメリカとの最終戦争まで早く(1927年ころ)から見据えていたという。

 しかし他国の主権下にある土地の領有を正義と主張した根拠は何か?中国の新生と日中の提携を願っていた石原は辛亥革命成功の報に大喜びしたという。しかしその後の軍閥割拠の混乱を見て、中国人の近代国家建設の政治的能力に疑いを持つ。そして「日本軍による満蒙領有は満蒙問題を解決し、中国全体の統一と安定を促進し、東洋の平和を確保する」(P.57)とまで論じた。また満蒙が中国固有の領土ではないという議論もときおり垣間見える。


 第2章では1931年9月18日の柳条湖事件に始まる満洲事変の開始から、満洲国建設への道程を見る。関東軍の満蒙領有構想によって起こされた満洲事変であるが、それが朝鮮のように日本に併呑されず、また中華民国主権下の一独立政権ともならず、満洲国という独立国家となった。そこには各民族内の各潮流の動き、思惑、打算があった。首謀者といえる石原が領有論から独立国家樹立へ転回する。東北地方在住の中国人、満洲人の同調者、受け皿を探り、彼らの退路を断ち一蓮托生の運命共同体とすべく独立国家を目指した。

 同調者となったのも多様で、溥儀を抱える清朝復辟派、張学良(軍閥・大地主・資本家)派に反対する地主層。日本人のなかでも排日運動に対する防御的「民族協和」を謳った山口重次ら満洲青年同盟、大川周明の系統をひく興亜主義と仏教思想を混淆させた笠木良明率いる大雄峯会が挙げられる。この二つの潮流は日本人を民族協和、アジアの指導民族としていたが、それとは違い中国人の自治組織から王道立国を目指した橘樸のような自由主義者もいた。中国ナショナリズムを直視し、対等主義を唱えた橘たちがなぜ関東軍と協力関係になって行ったかは歴史上の大きな参考になる。

 第3章では満洲国の建国の理念と統治の形態を追う。1931年3月1日建国宣言が発表され、9日には溥儀が執政という名の元首に就任する。建国宣言では動機と理念を表明している。軍閥の悪政から三千万民衆の苦しみを救うために隣人が手を差し伸べて独立するのは、中国国民党の三民主義や欧米帝国主義の覇道主義に対抗し、五族(漢・満・蒙・日・朝)協和の王道楽土を建設するということを唱っている。しかし、そこで起用されたのが清朝のラストエンペラーであり、復辟を熱望していたとされる溥儀であったことは、中国内のみならず、「辛亥革命以来の中国人の成果を否定する」という大アジア主義日本人の批判も強かった。

 ともあれ妥協案として溥儀を執政という中途半端な存在でスタートした満洲国だが、その基本法である政府組織法(憲法は最後まで起草されなかった)の中華民国約法との類似を著者は指摘する。基本法では準帝制というべき広範な権力をもつはずだった溥儀は、実はその権力は行使できなかった。執政就任の3日前に本庄関東軍司令官に宛てた溥儀・本庄書簡で、国防、鉄道・港湾・水路・航空路、人事などを関東軍に委託していたのである。国の統治組織も四権(三権+監察)分立は謳われているものの、立法府はけっきょく作られず、行政府による独裁中央集権制という形になった。その行政も中国人の国務総理はいるものの、実権はその下の総務庁を支配する日本人官僚が握っていた。さらに内面指導と称する関東軍の強制力がその背後にあった。満洲国をして「永遠にわが国策に順応せしめる」という体制だったのである。

 第4章ではその満洲国の実態を記す。1931年は世界大恐慌が尾を引き、冷害・凶作で東北地方での娘の身売り、労働・小作争議、失業率の増大など、日本社会がどん底にあり、満洲を「希望の新天地」と渇望する熱気があったという。しかし、1932年8月に満洲国を視察した矢内原忠雄(東京帝大植民地政策学)は、満洲の現実はだいぶ醒めていると観察する。そして「いかに高遠な思想を掲げようとも、植民地は植民地としての法則にしたがって、収奪の対象としてか扱われない」と看て取った(P.188)。建国後、五族協和、王道楽土という理想(建前)を目指す大雄峯会は追放され、満洲青年同盟も解散する。石原とほかの関東軍幹部との意見の違いも顕在化し、1932年8月に本庄、石原たちは満洲を去る。

 1932年8月の日満議定書を経て、9月に日本は満洲国を承認するが、1933年2月のリットン調査団報告を受けた国際連盟の不承認決議に抗議して、日本は国際連盟を脱退し孤立の道を歩む。この間、鄭孝胥国務総理は辞任申し出たり、消極的抵抗するが果たせない。一方では中国人や日本人からも売国奴と軽蔑・指弾される立場の内心は想像に余る。そしてそれは後任の国務総理になり、「好好先生(=イエスマン)」と身内から揶揄された張景恵も同じだったろう。いや、1934年3月に念願の皇帝に、民衆の歓呼の声なく即位した溥儀がいろいろもがいたあげく、1940年(皇紀2600年)に天照大神を祭神としたというのは痛ましいというよりはない。日本人を除く各民族が満洲国を自らが創造した国家と当初から考え期待を抱いていたか?と著者は問う。民族による給与や食事の差別や能力主義という名目の優越感に浸る日本人官僚たち。

 1937年9月、5年ぶりに復帰した石原はかつて自分が思い描いていた満洲国とは違うものを見る。星野、岸、東條英機、松岡洋右らテクノクラート、能吏型軍人の運営する満洲国があった。アジア的な言辞とはうらはらに、「文明を普及させる使命」という西洋的な植民地支配の論理。太平洋戦争開始以来、日本の戦争遂行のため、鉄鋼・石炭・食料の増産、強制徴用。王道から皇道へ、「八紘為宇」。建国理念の喪失。日本に奉仕・追従するのみ。満洲国は日本の国家・政治の実験室、研修室の役割を果たしたという。キメラの尾である龍の部分は骨肉とも羊(天皇制国家)と化した。そして1945年8月、ソ連の参戦、日本のポツダム宣言受諾、18日朝鮮との国境で溥儀は満洲国解体を宣言した。


 終章では満洲国の実相を描く。まずお題目の「民族協和」について。実態ははなはだしい民族差別が日常的に存在したが、日本人の高級官僚は民族差別に対する無自覚、指摘されても問題がどこにあるのか察知できない無感覚であったという。そして軍は民族間の反目、離間をあおることを統治手段と考えていた。多民族の共存ではなく、日本人の同質性への服従をもって協和の達成された社会とみなすことだった。

 ほかの王道楽土の実態も厳しい。日本からの開拓農民に土地を奪われた中国人農民の子どもたちには丸裸で生活しているのもいたという。そして追い詰められて抵抗する人びとを「匪賊」と見なし、その対策として集団部落や保甲制度を採った満洲国を、著者は国家全体が兵営となった兵営国家という。満洲国籍というものは出現しなかったので、著者は「国民なき複合民族国家」と呼ぶ。龍の尾を失ったキメラは限りなく日本への同一化を強制されていく。1945年8月17日、満洲国の最高学府である建国大学の日本人教官は、別れを告げに来た朝鮮人、中国人の学生の挨拶に、キメラの死滅を知る。「先生たちの善意がいかようにあれ、…満洲国の実質が、帝国主義日本のカイライ政権のほかのなにものでもなかったことは、遺憾ながらあきらかな事実でした」(P.303)。

 補章は11年後の増補版で付け加えられた想定問答集である。初版は吉野作造賞を受賞して評判になり、多くの書評も書かれただろうし、読者からの質問も多かっただろう。現存する満洲国経験者・関係者の一部からは強い反発を受けたことも想像に難くない。それは増補版のあとがきにも触れられている。興味深かったことに少し触れてみたい。

 「問10、14、15、16」である。つまり日本の国民にとって満洲国はどういうイメージであり、実際に渡航した人たちとってどうであったかということである。夏目漱石の『満韓ところどころ』も引用されているが、「未開で生命力に満ちた自由な大地」というイメージに惹かれて渡航した人たちは多かっただろう。都会では西洋文明のフロンティアのような要素があり、植民地特有の雰囲気があった。左翼の転向者のような疑似亡命者も渡り、「アジール(庇護空間)」という意味合いがあったという。しかし、農村部では出産能力を期待された「大陸の花嫁」がいた。

 次は「問13、22」である。「満洲国というのは、関東軍の機密費作りの巨大な装置だった」という満洲国総務庁次長だった古海忠之の述懐である。アヘンなどを資金源に謀略資金を作りだし、岸信介は甘粕正彦に現在の80~90億円相当の工作資金を手渡したという。こうした経験が大東亜共栄圏に散った関東軍参謀を支えた。またこの当時満洲に駐在した岸以外にも、椎名悦三郎や根本龍太郎、始関伊平などの戦後自民党の有力者の名前があるし、実業界では星野や鮎川義介などの人脈が裏資金を支えたのだろうとある。

 「問23、24」の研究の視角では、総括的な結論が記されている。「空間」という感覚・視角を今後重視したいこと。満洲国研究においては思想・倫理の次元の持つ意味合いが高いということ。「掲げた理念が一見、高邁であればあるほど、人を魅了するものであればあるほど、その論理構造や内実がいかなるものであるかを鋭く問いつめる必要がある」と主張する。特に満洲国の歴史のなかで現れた「善意的惑溺」あるいは「自己への意識過剰」と一対になった「他者への無意識過剰」を挙げて、自己欺瞞を生むメカニズムを解明していきたいとする、今後の研究への決意表明である。満洲国という人工的な「偽」国家の歴史は決して過去のことではなく、そこから日本という国家と個人との関係を照射することができるだろうといえる。

『天府 冥府』
 かなり重たい内容なので、どんどん読み進むというわけにはいかず、何度も立ち止まり、前に戻ったり、沈思黙考してしまう時間も長かった。それは民族間の対立・憎悪、略奪・虐殺・病死といった悲惨で重たい事実が存在していたということだけではない。満洲国の高級官僚であった人たちの、理想と実際との乖離、差別・搾取への無自覚さを批判することはたやすいが、その人たちは戦後日本の航路に大きく関与した。そして現在の日本という国家の進路や自らの生き方を省みると、安易な発言はできなくなってしまう。新書本ながら中身の凝縮した本で、読了した時には疲労感が残った。

 それでもやや不満に思ったことがある。「新書という本の性質上、その問題に関するガイダンスとしての役割を果たすべきことも当然に求められる要請である」(P.318)と述べながら、難解な漢語がさらっと解説なしに使われている。例えば「大旆」とか「仗義」とかである。原文にあって著者にとっては自明のことでも、一般読者にとってはいちいち辞書を引かないといけないだろう。それが読む速度を遅れさせ、理解を難儀にすることは間違いないと思う。やはり学者の孤高・偏狭さなのだろうか。また、引用される満洲国の文書は日本の漢語仮名交じり文で記されているが、これは原文は中国語であって、それを漢文式に書き下したのだろうかという説明がないように思った。

 文献史料から満洲国を語る学者・研究者ではなく、この満洲国あるいは満洲を実際に体験した日本人の思い出はどうだろうか。本書のあとがきのなかでも触れられている「現地で生きた者の感覚とは温度差が生じてしまう」(P.293)ということである。『満韓ところどころ』は1909年の漫遊記である。まだ満洲国は存在せず、関東州の租借地と南満州鉄道(満鉄)を日本人が支配していた時代である。その満鉄総裁である学友だった中村是公を訪ねて、大連、旅順、奉天、ハルピン、長春と回っている。現地に特権社会として存在する日本人エリート層と、黙々として働く中国人苦力や朝鮮人車夫が描かれている。ここで漱石個人に見られる差別意識あるいは諧謔精神かを云々するのはあまり意味がないかもしれない。この時代の日本人の知識人一般の認識だったのだろう。

 詩人財部鳥子の小説『天府 冥府』を読んでみる。財部は1933年新潟生まれだが、すぐに母に連れられて北満洲のヂャムスに渡り、敗戦・引き揚げの1946年までの少女時代を過ごした。物語は1932年8月の松花江にある船上から始まる。船には日本の数百人の兵と70人余りの民間人が乗っており、水害を受けたイランからヂャムスへ下る途上であった。ヂャムスでは県長や少数の吉林軍の迎えとともに、大勢の野次馬、乞食たちの「ジャングイデ(旦那)」という叫び声に迎えられる。

 「わたし」の父は吉林軍の将校で、周囲で日本軍に抵抗する匪賊の討伐に忙しい。母は日本で生まれた「わたし」を連れて夫を追って満洲に渡った。当時のヂャムスは人口3万人ほどで、うち日本人は600人くらい、満洲人、中国人のなかに囲まれた暮らしが始まる。中国人といっても山東地方からの移民がどんどん押し寄せて来て、母が覚えた日常会話は山東語であった。モンゴル人も朝鮮人もロシア人も住んでた町であり、周囲の森林には匪賊や八路軍や熊、狼たちも活動している。軍を退役した父は少年開拓団を率いて大和村という開拓地を建設する。ヂャムスは産物の豊かで天然の要害の地で「天府」だと父は言う。しかし、零下40度になる土地である。ヂャムスの人口は5年後には10万人に、日本人も1万人近くに膨れ上がったという。日本人小学校の生徒数も、7人から800人に増えた。しかし、「わたし」は学校が好きではない。内地から転校してきた男の子は、日本を知らず中国語を操る女の子を「満人、チャンコロ」と嘲る。

 1945年8月9日、ヂャムスにソ連機が飛んできて、「天府」は終わりを告げる。「冥府」の冒頭では91歳で亡くなる母を見守る「わたし」と弟のシーンから、1945年8月の回想になる。ヂャムスから逃げ出し、綏化から新京へと流れ、その間に略奪、強姦に遭い、麻疹で多くの家族を失い、新京では肉体労働やコソ泥のようなことをしながら生き延びていった日本人の姿を描く。「わたし」は末の弟と父を失うのだが、あまりにも多くの死が淡々と描かれる。「冬からの死人は凍ったまま越冬したから春先も形が変わっていなかった。…凍土が弛めば彼らはわたしの足首を捉まえてずぶずぶと腐肉のなかに入れてしまう」。(P.184~5)。

 財部は1981年にヂャムスを母とともに再訪している。母は「命懸けで行かなくてはならない」と、昔の恨みをもっている人に会ったらどうされるかわからないという風に言ったという。しかし、実際にはにこやかに接待してもらった。中心街も昔のままで呼称が変わっていたり、通っていた小学校や住んでいた旅館も健在であった。しかし、昔のヂャムスを知る人には会えず、昔の満洲国は「偽満(ウェイマン)」と呼ばれていることにショックを受ける。財部もたいへんな思いをして帰国した引揚者であるが、引揚者の前は「植民者」であったという意識があまりない、ひどい目に遭って帰ってきたという思いが強いという。また同じ植民者であっても、辺境の満蒙開拓団にいた人と、大連などの植民都市にいた人間では感覚が違っていたことを、清岡卓行の「異形の町」を紹介しながら指摘している。藤原てい著のベストセラーにも共通しているかもしれない。

『朝鮮の王公族』
 この満洲国に先行して日本に併合され、日本の帝国主義の全盛期に隣接して支配された朝鮮の元皇帝一族を扱った新城道彦『朝鮮の王公族』という本も読んでみた。日韓併合後、旧対韓帝国の皇族は、王公族という日本の皇族と華族の間のいはば「準皇族」の立場に置かれ、数奇な人生をたどったという。そのエアポケットのような人たちに関心をあてている。

 いはば皇太子に当る2代目李王である李垠は日本軍の陸軍少将として、1939年満洲国皇帝であった溥儀に面会したという(P.203)。清の最後の皇帝であり今や日本の傀儡国家の皇帝と、その冊封国であった国の皇族で今や日本人となっている王子との会見は、いかな心中であったのかは下司の勘繰りだろうか。しかし、本書は珍しい題材を取り扱っているに留まり、踏み込みが足らないように思える。それは「帝国日本」と「帝国主義の侵略」を区別して考えたい視点ゆえかもしれない。つまり自らに引きつけることが少ないのではないかと思うのである。

 植民地体験ということについてである。『キメラ』の著者は「増補版のためのあとがき」のなかで、初版を刊行した後に、伯母夫婦が満洲国からの引き揚げ者であったことを記している。そして「従業員に対する接し方が満洲国時代に覚えた言動から抜けきれなかったような気がする」と評した(著者の)父の言葉を紹介している。日本人で自らが植民者体験を持っている人は満洲であれ、朝鮮であれ、台湾であれ、南洋諸島であれ、今や生存されている方々はごく少数であり、声も小さいと思う。残された記録は膨大にあるのだろうが、戦後の日本人はきちんと向かい合ってきたのだろうかと思う。

 しかし、ほとんどが西ヨーロッパ列強の植民地となっていたアフリカ大陸においては、それは今なお日常茶飯事のように感じられる。つまり、植民地化、キリスト教化によって文明化・近代化されたのだという認識が強く残り、元植民者で帰国した人、あるいは残留を選んだ人たちの思考の底にある。そしてその思考回路は植民者ではない、現在の外国人在留者(在留邦人など)にも強い影響を与えているようだ。だから「植民地支配に対する謝罪」なんて行なわれないのが普通だ、敗戦国になったドイツは別として。従って、今なお帝国主義・植民地主義の清算の作業は途上であり、ダブル・スタンダードである。他国の例はともかく、満洲国に関して『キメラ』が取り上げた厖大な資料は多くは日本もしくは、日本人の記録である。それが日本本国ではなく、満洲国に在住した日本人の記録や声を丹念に拾ったということに敬服する。さらに中国人(漢族、満洲族)、朝鮮人、モンゴル人などの声を拾っていく作業は途方に暮れる量だろう。

 注目されていた戦後70周年記念談話が発表された。満洲国高官として活躍し、開戦時の内閣の大臣としていったんはA級戦犯とされ、その後日米安保条約の双務的改訂を押し進めた人物の孫の談話である。さっと読んだ限りでは、危惧されたようなひどいものにはなっていなかった。満洲国を正当化するのではなく、侵略や植民地支配を批判する姿勢は維持している。21世紀構想懇談会の報告書の歴史認識の大勢を覆すことはできなかったのだろう。懇談会のメンバーの中には「侵略」を否定する人が2名いたと伝えられているが。総花的でさまざまな言葉がちりばめられていて、やや第三者的でもあり、真意がどこにあるかわからないという批判もあるようだが、所詮は政治的・外交的な談話であるから、そこをあげつらうことにはあまり意味がないと思われる。

 19世紀後半からの帝国主義・植民地化の流れが押さえられていて、歴史学者が無力ではなかったということはホッとする。しかし満洲事変のころの叙述で、「新しい国際秩序への挑戦者」というくだりは国際政治学的な文章だろうと思う。「歴史に謙虚でなければならない」と繰り返される。談話の後の発言で「謙虚な姿勢とは果たして、聞き漏らした声がほかにもあるのではないかと、常に歴史を見つめ続ける態度であろうと考えます」としている。この「聞き漏らした声」というのが奈辺にあるかは措くとして、「積極的平和主義」の実行というのが「満蒙領有論構想」といささかも重なることがないか如何で、今後の歴史に対する責任を果たすことになるのだろう。

☆写真・地図は本書から。

☆参照文献:
 ・新城道彦『朝鮮の王公族-帝国日本の準皇族』(中公新書、2015年)
 ・加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書、2007年)
 ・財部鳥子『天府 冥府』(講談社、2005年)
 ・財部鳥子「詩と体験-満洲という外地」(城西大学、2014年)
 ・夏目漱石『満韓ところどころ』(青空文庫、1999年。底本筑摩書房、1988年。初出朝日新聞1909年)
 ・藤原てい『流れる星は生きている』(中公文庫、2002年改版、1976年初版。初刊日比谷出版社、1949年)
 ・21世紀構想懇談大会報告資料・報告書(首相官邸ウェブニュース、2015年2月~8月)

(2015年8月15日)






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