読書ノート




読書ノート No.91


 

平野克己『経済大陸アフリカ』


根本 利通(ねもととしみち)


 平野克己『経済大陸アフリカ―資源、食糧問題から開発政策まで』(中公新書、2013年1月刊、880円) 

『経済大陸アフリカ』
 本書の目次は次のようになっている。

  第1章 中国のアフリカ攻勢
  第2章 資源開発がアフリカをかえる
  第3章 食料安全保障をおびやかす震源地
  第4章 試行錯誤をくりかえしてきた国際開発
  第5章 グローバル企業は国家をこえて
  第6章 日本とアフリカ

 一昨年(2013年)刊行されて話題になった本であるが、昨年一時帰国で1年遅れで入手した。マクロ的にアフリカを語る経済学の本らしく、まずアフリカにおける中国の存在感から語りだす。ここ数年(10年になるか)、中国の存在を気にする、嘲笑する、批判する、あるいは手ごわい競争相手と見なす、見習うべきは見習おうという、あるいは到底敵わないと諦める日本人が増えてきているように感じる。それは資源大陸とアフリカを見なした場合、出遅れた日本経済界の思惑なのだろう。

 私はタンザニアに移住した形でもう30年を超えたが、当初から中国の存在感は大きかった。それはニエレレ初代大統領のウジャマー社会主義を支援したのが中国であったこと、その当時まだ貧しかった中国の全面的協力によって、西欧から見放されたタンザン鉄道が開通し「南南相互協力のモデル」としてもてはやされたことなどに起因している。2014年、中国共産党とタンザニア革命党(CCM)が、「新時代の社会主義のあり方について」討論したという新聞記事にはちょっと虚を突かれたが。

 ほかのところにも書いたが、私が初めてアフリカを旅した1975年はタンザン鉄道が完成した年で、1976年2月にはそれに乗ってザンビアまで行った。タンザン鉄道沿線の各駅には保線担当の中国人の住居が多く、人影も多かった。1984年にダルエスサラーム大学に留学した時には、ウジャマー社会主義末期で経済はうまく回転していなかったが、それでも人民服を着た中国人は多く、魚市場で彼らが横流ししたと思われる青島麦酒や南京豆が売られていた。中国は依然友好国ではあったが、スワヒリ語の呼称Mchinaには親しみ・尊敬ではなく、いくぶん軽んじる感覚が含まれていたように思ったのは、私の偏見だったのだろうか。

 前置きが長くなったが、第1章では、その中国のアフリカ大陸への進出の様子を分析する。20世紀の末ごろは発展しないアフリカは世界の辺境と見なされ、貧困削減のための援助、統治の改善(民主化)などで国際社会のお荷物と見なされていた。それが21世紀、経済成長が著しく、世界経済に必要なものとして組み込まれた=グローバル化したことを、中国のアフリカ大陸進出戦略から描いている。

 中国のアフリカとの関わりは、独立闘争の支援、タンザニアのウジャマーとTAZARA建設など古いものもあるが、1990年代、中国の経済成長が急速化してから一気に深まった。中国の「世界の工場」化の過程の資源需要である。石油・石炭、鉄鉱石、ニッケル、アルミニウム、銅鉱石など多くの資源を暴食状態だという。その始まりは1995年のスーダンの石油利権の獲得からとされるが、戦略的には2000年の「中国アフリカ協力フォーラム」(FOCAC)の開始からとされる。その3回目に出た北京宣言(2006年)などを経て、膨大な金額が投資と援助に投入され、中国の首脳のアフリカ諸国歴訪も頻繁である。中国製品がアフリカ市場に流れ込み、主に南ア企業による中国投資も目立っている。

 こうした中国のアフリカ進出に対し、「資源収奪は新植民地主義」「人権無視の独裁政権への支援」「安価な中国製品の流入によりアフリカ製造業への打撃」といった警戒、批判が行なわれる。しかし著者はそれを否定する。中国の進出はアフリカの経済主権をおかすものではなく、政治哲学は欧米諸国とは違う道を行くはずである。また最後の批判に反しては痛烈に反論する。いはく「アフリカの労働コストは高いから中国人を雇用するのであり、アフリカにある低廉で豊富な労働力は現実を無視した誇大広告にすぎない。競争力のない現地企業が、高価で質の悪い製品をほそぼそと供給してきたのがアフリカの国産品市場だった。そして中国製品の流入はアフリカ社会を豊かにした」(P.47~48)。

 第2章では、現在のアフリカ経済の高度成長を支えている資源開発を分析する。2003年のイラク戦争以降の資源価格全面高と製造業製品価格の抑制から、資源争奪がアフリカに向かっていて、日本もレアアースや天然ガスなどに参入している。アフリカ諸国は資源価格の高騰で潤っているところもあり、赤道ギニアの「開発なき成長」の例が紹介されている。ほかにもアンゴラ、ナイジェリア、ナミビア、ザンビアなどの例も挙げられている。原油価格や金属価格指数とアフリカ諸国のGDPの相関性は高いという。

 アフリカ諸国の経済成長は、個人消費の伸びに依存している部分が多いという。それは、外資による生産力のアップとその所得での外国製品の消費が爆発し、資源以外の部門への民間投資の刺激によるという。国内のダイナミズムではなく国外の投資決定で動く経済であり、グローバル企業の戦術と力量が赤裸々にわかるし、内からの抵抗力が弱い地域だという。「資源の呪い」「資源の罠」という開発経済学の分析がそのまま使えるかどうか、アフリカ諸国は呪われているのか?国民の格差拡大を測るジニ係数や、汚職規制指数や行政効率指数の数字を挙げている。リビアのカダフィ政権崩壊後のイスラーム武装勢力の分散まで触れるのは筆の走りすぎか。


ダルエスサラームでの中国企業の建設現場

 第3章では、アフリカの農業の問題をグローバルな視点で分析している。アフリカの近年の資源を基にして、消費爆発という内需主導で経済成長しているが、その恩恵が農村に浸透せず、貧困削減につながっていないという。サブサハラ諸国の穀物輸入は、世界最大の輸入国日本を凌駕し、年々増加する一方であるという。サブサハラの都市化率の増加のグラフと、穀物対外依存率の増加グラフの相似を指摘する。つまり、アフリカの低い生産性の農業では、増える都市人口を扶養できない。このままではアフリカは世界の食料保障に重大な負担になるという。農業の低生産性は食糧価格、物価を押し上げ、都市での製造業の従事の賃金を押し上げ、競争力を失わせる。その悪循環を克服するために、農業の近代化、肥料投入などの重要性を訴える。

 アフリカの貧困問題の元凶を農業の低開発であると断定し、「アフリカ農業は、世界にのこされた、最大にして、もしかしたら最後の開発課題である。この課題に解決の道筋がひらかれるかどうかの成否は、世界の食料安全保障に深くかかわっている。アフリカ社会の安定も、農民所得の向上がなければ実現しないのである」(P.146)とこの章を結んでいる。

 第4章では、「国際協力」の理念のなかみ、変遷を分析している。英仏のポスト植民地対策、アメリカの武器貸与法と食糧援助、USAIDに見る本音と建前、日本の戦後賠償に代わる経済協力など、「国際開発の理念が政策を先導した国はない」という。国連におけるベーシックヒューマンニーズ(BHN)という考え方の登場や、南北問題テーゼがオイルショックを契機として「南」の結束が崩壊して挫折したとする。東アジアNIES諸国の経済成長と「貧困問題のアフリカ化」から、1980年代には南北問題から「構造調整」の時代に入った。しかし、構造調整も結果を出せず、2000年代には「人間の安全保障」「ミレニアム開発目標」などが掲げられた。

 著者は言う。「援助はなにか普遍的な理念のあらわれなのではなく、国際政治史と世界経済史にうめこまれた一現象としてとらえなくてはならない。……国際開発理念と援助政策は、その生成においても運用においても、また担い手においても別のものなのであり、おたがいに利用しあう関係にある。……ODA個々の事業の目的をはっきりと提示し、その目的が国益にかなっているかどうかを確認したうえで、費用対効果を高く維持することである」(P.196~7)。「援助政策がナショナリズムから逃れることはできない」とも言う。

 第5章では、成長し始めたアフリカにおける企業の活動に触れる。「アフリカの投資環境が改善されたのではなく、グローバル企業の投資能力が向上した。…最大の誘因は有望資源の存在であり、政府の政策ではない。…開発経済学ではなくて経営学の対象となった」という。まず資源分野の南ア企業を見る。南ア白人起業家の攻撃的経営を評価する。資源以外分野のの南アのビール会社、銀行、携帯電話、IT、医療分野、南ア以外のナイジェリア、ザンビア、ジンバブウェ企業にも触れる。ナイジェリア以外は南アの白人企業の影が濃い。

 アフリカにおけるビジネスのキーワードとして、BOPとCSRが挙げられている。BOPビジネスは貧困集積地で膨大な販売量でおぎなう収益構造だから、末端消費市場に浸透し、消費を開発しないといけない。日本企業では西アフリカにおける味の素の例が挙げられている。所得ではなく消費から貧困者の厚生を引き上げるという手法で開発論に変革をもたらすという。そしてメガプロジェクトの場合、地域総合開発となる場合もあり、社会開発事業を並行しておこなうこともある。CSRとはビジネスの目的と社会的有用性を同時に満たすことを要求され、BOPビジネスは社業の理念を問われるという。アフリカにおける最大の発展障害は国境だが、国境を越えるグローバル企業が活躍しているが、その弊害としての所得格差の拡大にも向き合うことになる。

『アフリカ問題 開発と援助の世界史』
 第6章では日本とアフリカの関係に触れる。というか、「日本の国益を実現するためにはどのような関係をアフリカとのあいだに構築すべきか」ということが本書執筆の最大の目的であったと思われる。1990年代からの日本経済の長期低迷の分析をする。そして「アフリカは日本を救うか」と題して、アフリカの持つレアメタル、原油、天然ガスの重要性を挙げる。そして、官民連携で資源開発が伴う地域総合開発にODAを投入することを主張する。21世紀をいきのこる企業として味の素などいくつかの企業名が掲げられている。BOPビジネスを成功させる企業体力とビジネスの進化を強調する。「国際開発は強者の理念」であるが、持続的に安定した関係を築き、相互利益の実現を目指す。「自国のために働くことは利己主義ではない。健全なナショナリズムをもたない人間はどこでも尊重されない。それは開発の基本である」(P.280)と結んでいる。

 ある程度知っていることだから読みやすい、簡単に読了できると思っていて、あにはからんや何回も挫折して、購入から読了に1年以上もかかってしまった。経済の知識・感覚に乏しいこともあるが、マクロというか鳥瞰的にアフリカ大陸を眺める視点が弱いからかもしれない。「援助」の概念の変遷などは新鮮に感じたが、著者の前著『アフリカ問題 開発と援助の世界史』も読んだはずだい、その内容が頭に入っていないようだ。どうしてもタンザニアというタコつぼからアフリカや世界を眺めてしまうからだろうか。そのタコつぼからのミクロの視点というか、感じた違和感を記してみたい。

 アフリカの企業という場合でも、南アのそれも白人の企業に偏っているように見える。タンザニアにいると南ア資本のビールやホテル、スーパーマーケット、土建会社などの存在、進出を日常的に感じる。「アパルトヘイトで訓練したから、アフリカ人を安くこき使うことに馴れているのさ」と負け惜しみをいうタンザニア人もいるが、アパルトヘイトの廃止は実は南アの産業界にとって当然の選択だったのだろうと思う。だから、取り立てて南アの白人企業(マネージャーがアフリカ人だったとしても)のアフリカ大陸進出をこと挙げしなくてもいいいのだという気がする。グローバル企業の進出で、その本社が南アにあるか、ロンドンにあるかはあまり問題ではないだろう。中国企業の進出の評価には教えられることが多かった。自分自身が欧米日の価値観に染まっているのかもしれない。

 その中国および中国企業の進出にだいぶ遅れながら、日本の企業、大企業、中小企業、零細個人企業がおっかなびっくりタンザニア市場に乗り出そうとする。「タンザニアの地方農村のために」という大義名分を持ちだして、日本国のカネを引き出そうとする企業もあるが、多くはBOPビジネスに隙間商売の勝機を見出して、建前は関係なくがむしゃらにやってくる。エコノミック・アニマルと言われた高度成長期を遠く過ぎ、20年間の経済低迷期を過ごしている日本人にそのくらいのバイタリティーがあれば嬉しいものだ。ただ私のように「南北問題テーゼ」「従属論」の時代に学生であった者には、その態度はいかにも新植民地者のようで、危なっかしく見える。それをアシストする日本政府機関にも、この間の蓄積が増えているかどうか。

 国益、あるいはナショナリズムについてである。植村和秀『ナショナリズム」』参照)と重ね読んでいたから感じだことでもある。著者は健全なナショナリズムを前面に出している。「国益」というのが国家の利益なのか、国民の利益なのかという戯言は措くとして、主権国家体制というのがさほど長い歴史を持つわけではなく、また永続するいう保証もない以上、「日本は今アフリカを必要としている」というだけで議論は済むのだろうか。ミクロに長年付き合ってきた人間としては、そう簡単に断言できるものではあるまいという気が強くする。

 著者はアフリカにおける貧困の原因、発展の障害に、農業の低生産性や国境線の存在を挙げている。大筋においては同意である。しかし、その農業生産の飛躍的向上のために「緑の革命」や 「ランドグラブ」の評価については意見が分かれるかもしれない。ジンバブエの白人農家がムガベにより土地を強制収容され、ザンビアに移転して、ザンビアの穀物貿易の黒字転換に寄与した話はため息が出てしまう。タンザニアからザンビアを旅した1976年、主食の値段の高さに不満を感じたことを遠く思い出す。旧ローデシアの白人農家の持っていた技術だけで解決のヒントになりうるのだろうか。

 語句の使用についてである。ドナー社会になじみが深い著者だから抵抗感がないのかもしれないが、日本語として定着していないであろう語句がばんばん使われているのには違和感が強かった。「グローバルイシュー」「キーコンセプト」などである。言葉というのは移ろうものだし、動詞・形容詞の漢字の使い方に一定の主張があり、新しい日本語を創造しようという意欲があるのかと思って我慢して読んでいたが、そうでもないようだ。「アコモデイトする」なんてのは明らかな反則だと思う。


☆参照文献:
 ・平野克己『アフリカ問題 開発と援助の世界史』(日本評論社、2009年)
 ・植村和秀『ナショナリズム入門』(講談社現代新書、2014年5月刊)

(2015年9月1日)






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