読書ノート




読書ノート No.100


 

松田素ニ編『アフリカ社会を学ぶ人のために』


根本 利通(ねもととしみち)


 松田素ニ編『アフリカ社会を学ぶ人のために』(世界思想社、2014年3月刊、2,300円)。

『アフリカ社会を学ぶ人のために』
 本書の目次は次のようになっている。
  序 アフリカの潜在力に学ぶ (松田素ニ)
  第1部 多様性を学ぶ
   1. 民族と文化 (松村圭一郎)
   2. 言語 (小森淳子)
   3. 生態環境 (伊谷樹一)
   4. 生業 (曽我亨)
  第2部 過去を学ぶ
   1. 人類誕生 (中務真人)
   2. 古王国 (竹沢尚一郎)
   3. 奴隷貿易 (宮本正興)
   4. 植民地支配と独立 (津田みわ)
  第3部
   1. ポピュラーアート (岡崎彰)
   2. ライフスタイル (松田素ニ)
   3. 結婚と家族 (椎野若菜)
   4. 宗教生活 (近藤英俊)
  第4部
   1. 政治的動乱 (遠藤貢)
   2. 経済の激動と開発援助 (峯陽一)
   3. 自然保護と地域住民 (岩井雪乃)
   4. 感染症 (嶋田雅曉)
  第5部 希望を学ぶ
   1. 在来農業 (重田眞義)
   2. 相互扶助 (平野美佐)
   3. 紛争処理 (阿部利洋)
   4. 多文化共生 (松田素ニ)

 本書は誰のために書かれたのだろう。私は2014年の発行の後に、本書の筆者の一人からいただいたのだが、知り合いの筆者たちの担当した章を一部つまみ読みしただけでちゃんと読んだことはなかった。それどころか、なんとなく書名を「アフリカ社会を学ぶために」と思いこんですらいた。「アフリカ社会を学ぶ人」というのは誰なのか。どういう読者層を主に想定して企画されたものなのだろうか。



 まず本書で使われている「アフリカ」は「アフリカ大陸」ではなく、「サハラ以南のアフリカ」を指すことが暗黙の了解のようだ。暇つぶしに、フィールドとして取り上げられている国名を拾ってみた。セネガル、ナイジェリア、ケニア、南アフリカ、エチオピア、タンザニア、コンゴ、ボツワナ、ザンビア、マダガスカル、マリ、コートジボアール、ギニアビサウ、カメルーン、チャド、南スーダン、ルワンダといった感じだろうか(17カ国)。それ以外に分析の対象とされているのが、ジンバブウェ、モザンビークなど11カ国あるから、サハラ以南のアフリカ49カ国のうちの28カ国が触れられていることになる。まだ触れられていない国も多く、アフリカの国の数が何と多いことか。この意味は重要だろう。

 通読してみた。各分野の専門家が執筆されているので、特にコメントすることはないのだが、私の関心事である第2部の「過去を学ぶ」に関しては少々物足りなかった。バジル・デビッドソンの時代から、日本におけるアフリカ史研究は遅々とした進歩しか見せていないということを、内心忸怩たる思いでもある。文献史料に遺されていない無文字社会の歴史を掘り起こすのに考古学、文化人類学の成果を援用する以外の途もあるはずだが、それがなかなか果たせていない。歴史家はもっとフィールドワークをするべきなのだろう。

 第4部の「困難を学ぶ」では政治、経済も取り上げられている。これがアフリカの特色なのかもしれない。ともに普通のフィールドワークにはなじまない分野でもある。政治困難といえば、内戦、虐殺ということになり、進行中の現場にはジャーナリストでもないと入りにくいだろう。また経済学は現場で生きたカネの動きを追うのではない限り、普通はマクロ的な統計に頼ることになる。しかし、アフリカの統計の数字がどこまで信頼できるのかという問題がある。私自身、タンザニアの統計局の数字に呆れたことがあるが、かといって代わりの数字を出すことはできない。統計に把握されていない非公式市場つまり闇経済が、その国の経済でどの程度の比重を占めているのかを考えないと、経済成長率を判定するのも難しい。また政治学も統計だけで扱うと、タンザニアは独立以来、TANU-CCMがずっと政権を独占しているためか、「選挙権威主義体制」に分類している。よくわからない言葉だが、要するに「民主的ではない、独裁性が強い」ということなのだろう。アフリカにおける「民主主義」という言葉の意味の再検証もないし、その国の民衆の認識とは遠く離れたトンでも政治学が出たりする(本書ではない、念のため)。

 第5部の「希望を学ぶ」のなかに「紛争処理」は入ったが「教育」は入らなかった。教員経験のある私としては教育がアフリカの将来の大きな部分を左右するように思いたいのかもしれない。しかし、「先生」に導かれたタンザニアの教育も昨今行方を見失っているように見えてならない。「教育はカネ」の風潮が圧倒的である。政治家、高級官僚、富裕層の子弟は英語で教える私立学校、へたすると海外の学校で学ぶ。スワヒリ語で考える子どもたちを育てようという理想は遠くなっているように思える。公立学校の予算が少ないから、教室の定員、教員配置、教員給与の遅配などで教育条件は大幅に低下しているから、中産階級はもちろん低所得者層の親までも何とか子どもたちを私立学校に通わせようと四苦八苦している。そうしないと就職できないのだ。

 2015年10月にあった総選挙では与野党の大統領候補共に、教育の無償化を公約に掲げた。「幼稚園から大学教育まで無償」とぶち上げるのは自由だ。しかし、財源問題は措くとしても、政治家たちが自分たちの子どもたちをどの学校に送るか、「ニエレレの理想」が生きているかは定かではない。もちろん、ニエレレの持った教育観が英国の植民地教育哲学からどれだけ自由であったかは検証の必要があるだろうが。ちなみに新大統領夫人は公立小学校の先生であった。



 最初の疑問に戻りたい。本書の目的は編者が「序」や「あとがき」で繰り返し明らかにしている。「アフリカの潜在力に学ぶ」ということだ。アフリカが1990年代には「絶望の大陸」であったのに、2010年代には「希望の大陸」と呼ばれている。その間に何らかのアフリカ認識に変化があったのか、アフリカに対する色眼鏡は変わっていないということを検証したうえで、ではアフリカ社会とどう向き合うのかというテーマ設定である。

 そのキーワードとして「アフリカの潜在力に学ぶ」をあげているが、これは「アフリカの潜在力を活用した紛争解決と強制実現に関する統合的地域研究」という大型プロジェクトと呼応する。5年間続いたそのプロジェクトは終わりが近づき、その成果が発表される準備中と聞く。私自身、そのナイロビと京都のシンポジウムに参加させてもらったが、「アフリカの潜在力」という言葉の意味がつかみ切れなかった。果たしてどういう成果が発表されるのだろうか。

 「アフリカの潜在力」とは、伝統社会への回帰とか賛美といったロマンティシズムではない。編者によれば「包括性と流動性」「複数性と多重性」「混淆性とブリコラージュ性」だという。ブリコラージュ性というのを日本語として使われると何のことかわからないが、民族間の垣根の低さ、流動性、変動性、多重所属のことを言っているのだろうと思われる。しかし、それはわざわざ三つに分けていう必要があるのだろうか?

 19世紀の西欧が達成した国民国家のなかで半ば強制された模擬的な民族統合、あるいは日本のように特殊な単一民族国家志向、韓国もまたしかり。中国やインドネシア、タイ、ミャンマーなどでも主要民族による強制的な民族同化傾向が進んでいる。それに対してアフリカの諸民族はアンチテーゼを提示できるのか。アフリカ的な紛争解決の知恵として、南アの真実和解委員会(TRC)とルワンダのガチャチャの例が挙げられているが、これは果たして肯定的な例になるのだろうか。

 私が感じているかすかな違和感は「紛争が起こってからの解決するための知恵」ではなく、「紛争を起こさない知恵」はないのかということだ。政治学者たちは事件・紛争が起こってから後追いの理由づけ、背景の解釈、そしてその解決方法を議論するが、それが未来の歴史に対して有効になるだろうか。独立以来初めての与野党の拮抗した、もしかしたら政権交代に伴う流血騒ぎが起きるかもしれないと噂された2015年のタンザニアの総選挙。開票をめぐる細かな不正はあったろうが、あっけなく(政争の島ザンジバルを除いて)与党政権の続投となり、かつ「変化の嵐」が吹き出している。この変化が果たして本物なのか、時間稼ぎなのかはまだ見極めないといけないが、タンザニア一般国民の支持は高い。そしてこれはタンザニアが培ってきた民衆の叡智なのではないかと私などは期待してしまうのである。

 2015年11月14日にパリで大きなテロ事件が起こった。それに対し朝日新聞のヨーロッパ総局長は「パリに限らず、都市で暮らす人々の日常を壊すことで恐怖をあおり、社会を混乱に陥れることを目的にしている。まさに、文明そのものを標的にした卑劣な犯行だ。」と書いた。彼は「文明」をどう捉えているのだろう。ナイジェリアの農村でボコ・ハラムが繰り返す虐殺を「未開・野蛮の証明」というのだろうか。フランスの誇りである「自由・平等・友愛」の理念がアフリカのなかでどう実践されてきたのか。依然としてアフリカ特派員が「マサイ族」と平然と表記する新聞のことだ。半世紀変化なしと揶揄するのも徒労感に襲われる。


☆写真は本書の章扉から(伊谷樹一氏撮影)


☆参照文献:
 ・モルテン・イェルウェン著、渡辺景子訳『統計はウソをつく』(青土社、2015年)
 ・「AFRICA」2014年冬号(アフリカ協会、2014年)

(2016年1月15日)






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