読書ノート




読書ノート No.103


 

ガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』


根本 利通(ねもととしみち)


 ガブリエル・ガルシア=マルケス著、鼓直訳『族長の秋』(集英社文庫、2011年刊、初刊は1994年) 

『族長の秋』
 大統領とだけ呼ばれる名前の出てこない独裁者が主人公である。それ以外の登場人物は元娼婦で父なし子を産んだとされる母親ベンディシオン・アルバラド、ぺてん師だった影武者パトリシオ・アラゴネス、美人コンテストの優勝者マヌエラ・サンチェス、信頼できる腹心の将軍ロドリゴ・デ=アラギル、たった一人の正妻レティシア・ナサレノ、政敵の暗殺を繰り返す男サエンス=デ=ラ=バラなどである。

 冒頭、大統領府に「われわれ」が押し入り、死亡した独裁者を見るところから始まる。しかし、その死体が果たして大統領であるのかどうかは、誰にもわからない。これが二度目であるという。「実際にその顔を拝んだ者は、われわれのなかには、ただの一人もいなかったのである。…当時のわれわれの親でさえ、その親の口から話を聞いて-この連中もまたその親から聞いて-それで、彼がどういう人間なのかを知っていたに過ぎない。われわれは幼いころから、大統領府には彼が住んでいるものと信じきっていた」(P.13)という年齢不詳(水占いでは107~232歳に死ぬとされた)の主人公である。

 かつては救世主と呼ばれたという。英国艦隊の後ろ盾があって勝利したのだが、「政権が発足したばかりのころは…全国民の一人ひとりや、統計の数字や、解決すべき問題などをすべて頭のなかに入れているように、彼らをちゃんと苗字と名前で呼んだ」(P.123)というように有能な指導者だったのだ。そして100年目の大統領就任式の日を迎えた。

 大統領になるまえを知っている唯一の人間である母の死に立ち会い、その死亡時の奇跡を見た大統領はローマ教皇に列聖を申請する。それを審査するエリトリア人の審問官が、母親と大統領の出生の真実探しを始め、「権力の庇護のもとで私腹を肥やしている者たちの狡猾な奴隷根性や、阿諛追従のやからの貪欲さ。…大統領から何も期待していない貧しい大衆のなかにある、新しい愛のかたち」(P.211~2)が明らかにされる。そして、ローマ教皇庁との断交、教会の追放、財産の没収へと向かう。

 その過程で知り合い結婚した元修道女である正妻レティシアが教会財産の返還を哀願するのに対し、大統領はこう言い放つ。「神様とやらの手下のあの山賊どもに、うまくしてやられてたまるもんか、やつらは何百年ものあいだ、この国を食い物にしてきたんだ」(P.235)。カトリック教会の政治への影響が大きい国らしい。


ガルシア=マルケス

 昨年読んだ『エレンディラ』に続く、ガルシア=マルケスの作品である。1975年の刊行。前作で代表作である『百年の孤独』の刊行が1967年だから、8年かかったとされる。

 読みだして、読みづらいのに驚いた。段落の改行がないのだ。全部で6章に分かれているが、各章、文庫本のページで約60ページ、まったく改行がない。私は小説はだいたい就寝前にベッドのなかで読むことが多いが、区切りが付けられずに困った。これは初めての経験だ。

 語り手の問題である。冒頭の「われわれ」は市民たちだと思って読んでいたが、どうもどんどん替っていくようだ。同じ「われわれ」でも大統領側近の将軍や大臣と思える時もあるし、「わたしたち」「わたし」「わし」になったりする。

 「海」に対するこだわりが目立つ。「海が見たいという隔世遺伝的な好奇心」(P.191) 「こいつだけはだめだよ、…海を失うくらいなら死んだほうがましだ」(P.300)などという表現が繰り返される。そして、キニーネとタバコの独占権、ゴムとカカオの独占権、高地の鉄道と河川航行の利権などを、イギリス、オランダ、ドイツ、アメリカに与えてきて、最後は海をよこせと迫られている。この海というのは、山の人間だった大統領の憧れだったのかと思っていたが、あるいは外から来てすべてを奪って行く外国の象徴なのだろうか。

 「解説」で中島京子が、2010年の末から11年の初頭にかけて、チュニジアのベンアリ政権が倒され、続いてエジプトのムバラク政権が倒れたことと重ねながら読んだことを書いている。それから言うとちょうど5年遅れの年末~年始にかけて読んだわけだが、果たして「独裁政権」の状況は変わったのだろうか。


作品の舞台

 本書はラテンアメリカのおそらくコロンビアが舞台の話だろうが、コロンビアと限らずラテンアメリカ諸国に見られる独裁政権を取材して描いたものだろう。私自身、ラテンアメリカの現代史に疎いから、どこの場面が実際のどの事件からヒントを得られたのかはわからない。いや、ガルシア=マルケスの想像力はとんでもなく広がって行くから、簡単にモデル探しはできないのかもしれない。

 コロンビアというと、麻薬カルテルとか左翼ゲリラが思い浮かぶ。その歴史をちょっと垣間見ると、独立戦争のころから、内戦、戦争、テロ、虐殺、誘拐の繰り返しのように見える。ガルシア=マルケスが本書を執筆していたころも、コロンビア内戦の時代と言われるらしい。本作品のなかでもよく出てくる「連邦派」と「集権派」との対立。しかし、あまりにも簡単に人が、下手すると大量に殺されてしまう。。それはスペイン人が持ち込んだ文化なのだろうか。

 翻ってアフリカ大陸(サハラ以南のアフリカ)の状況はどんなもんだろうか…。東アフリカではウガンダ、ルワンダ、ブルンジは憲法を改正して、大統領任期の延長をしている。それ以外でも長期政権といえば、エリトリア、スーダン、アンゴラ、ジンバブウェなどすぐに思い浮かぶ。コンゴ(民)もその気配がある。ほかにも親子の世襲ということでいえば、赤道ギニアとかトーゴなどが思い浮かぶ。長期政権=必ずしも独裁政権ではないし、西アフリカに多かった軍事政権も少しは減ってきている。しかし、アフリカでの長期政権は個人による独裁が多いようだ。

 最後に私はスペイン語はわからないのだが、「patriarca」という語句の翻訳として「族長」というのは妥当なのだろうか。辞書を引くと「家長」という言葉が出てくる。それをあえて「族長」としたのはどういう寓意があったのだろうか。「氏族長」「部族長」とせず、もちろん「酋長」でもないのだが、「族長」と呼ばせたい、あるいはそういう表現に慣れている風土がラテンアメリカにはあるのだろうか。現代に生きる人たちを「…人」「…族」と区別する根拠を、ラテンアメリカに詳しい人に訊きたいと思う。

☆参照文献:
 ・ガルシア=マルケス『エレンディラ』(ちくま文庫、1988年)

(2016年3月1日)






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