読書ノート




読書ノート No.107


 

エイモス・チュツオーラ『薬草まじない』


根本 利通(ねもととしみち)


 エイモス・チュツオーラ作・土屋哲訳『薬草まじない』(岩波文庫、2015年。初刊は1983年、晶文社)  

『薬草まじない』
 本書の目次はあるようでない。36の小見出しが延々と続いているが、チュツオーラらしい、とりとめのない話が延々と切れずに連なっている。

 物語はチュツオーラの故郷、ナイジェリア南西部のヨルバランドのアベオクタと思われるロッキータウンから始まる。八百万の神々があり、鉄の神、雷の神、神託の神、、川の神、川の女神、祭りごとを守護する〈国の守り神〉などが崇拝され、主人公の父は神託を司祭する者たちの頭領、住民たちの長という地位にあった。まだキリスト教化、植民地化が始まる前の時代だったのだろう。

 若き主人公は狩人となり、ジャングルで野獣を獲るようになり、それを友人や女たちが怖がるようになるが、父の親友の町の創始者の娘ローラと結婚する。が、結婚後4年経っても子どもが生まれなかった。「子どもを一人も授からない女や男は、決して友だちや近所の人たちから尊敬や敬意を払われない。…一生涯悲しい人生を送らなければならない…」(P.23)という。

 そこで、〈さい果ての町〉に住む〈女薬草まじない師〉に薬をもらうために旅立つことにする。残忍で奇妙な生物のいるジャングルを通り抜けて6年以上かかるというその町への旅の準備として、ジュジュ、陶器の壺、マサカリ、弓矢、火打石、焼き肉、ヤムいも、粉コショウを揃えて、鉄の神と雷の神の社に参り、犬を屠り、家族に別れを告げた。

 旅の同行者(伴侶)として、第一の〈心〉、第二の〈心〉、第三の〈記憶力〉、第四の〈第二の最高神〉というのが挙げられている。主人公が危機に陥る、あるいはその前に予告を与えたり、忠告を与えたりする。第一の〈心〉はどちらかというと感性、第二の〈心〉は理性と呼べそうな判断をする。しかし、本当の危機になると黙ってしまう。それを克明に記録を取るのが〈記憶力〉、そして最後に救いに現れるのが〈第二の最高神〉という塩梅なのだが、それは読んでのお楽しみ。

 この伴侶とともに、主人公は様ざまな危険、怪物、生き物に遭遇し、危機一髪をくぐりぬけ、〈さい果ての町〉を目指す。「残忍な尾なしザル」「ジャングルのアブノーマルな蹲踞の姿勢の男」「野生のジャングルの富裕な人間」「奇妙なまるい日蔭」「山の乳房の長い母」「頭のとりはずしのきく凶暴な野生の男」「〈生まれながらにして死んでいる赤ん坊〉族の町」「不愉快きわまりない野生の人間」「ロードサイドタウン」などに遭遇し、ほとんどが強力な敵で、絶体絶命の状態に追い詰められたようになりながらも、伴侶たちの助けで切り抜けていく。

 そしてついに〈さい果ての町〉に到着し、〈女薬草まじない師の母〉=全知全能の〈聖母〉に面会がかなう。ここには、〈全能なる神〉に祈りを捧げる讃美歌を歌いながら、1年間待つ重荷を抱える人たちの大群がいた。「完全にガイ骨だけの男」「頭のはげた婦人」「てんかん持ちの男」「耳がひとつしかない女」「八つの重荷を背負った男」などである。主人公の抱える悩みはそれらと比べると軽いように見える。そして司祭である父がその問題を解決できなかったことを笑うお付きの人たち。しかし、〈聖母〉はスープを与えてくれた。

 そのスープを持って故郷に帰り、待ちわびていた妻が15年ぶりに妊娠し、めでたしになるはずだったが、作者はもう一波乱用意していて、主人公と妻は川の神、女神の世界も訪れることになる。結末では、わたしの〈記憶力〉が、第一の〈心〉と第二の〈心〉を告発する訴訟を起し、〈腎臓〉裁判官、〈記憶力〉検察官、第一の〈心〉と第二の〈心〉被告、〈第二の最高神〉弁護士との間で裁判が行なわれた。その結末やいかに。

 この本は2016年2月に一時帰国した際に購入した。こういう本が新刊で文庫本として出ること自体が不思議だった。チュツオーラの出世作であり代表作であった『やし酒飲み』の翻訳が晶文社から出たのが1970年、岩波文庫から復刊したのが2012年である。『やし酒飲み』は一世を風靡した(?)作品だからいいとしても、同工異曲の本書がさらに出るとは想像もしていなかったので、ちょっとびっくりした次第である。岩波文庫の編集者にマニアがいるのだろうか。



 誤解を招くような書き方をしたが、本書『薬草まじない』を読んだのは今回が初めてである。だから「同工異曲だ」という断定は、私の予断と偏見がなせる技で、「同工異曲だろうと思った」というのが正しい。それを確認するために、『やし酒飲み』を再読してみた。

 こちらは「わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった」という書き出しで始まる、父は大金持ちで、その総領息子が、専属のやし酒造りの名人を抱えて、ただひたすらやし酒を飲んでいたが、15年目に父が死に、その6か月後、やし酒造りが死んで、うまいやし酒が飲めなくなったので、〈死者の町〉にいるはずのやし酒造りを探しに旅に出るというお話である。最初は「死神」を連れ出し、「〈頭ガイ骨〉一家」に誘拐されていた美しい娘を救いだして結婚する。しかし、妻が産んだ奇妙な子どもがきっかけで、また旅立つことになる。

 旅では、「ドラム・ソング・ダンス」「空中旅行」「白アリの家」「笑の神」「戦さの神々」「幽霊島」「不帰(かえらじ)の天の町」「白い木の誠実な母の仕事」「赤い町の赤い住民」「幻の人質」などに遭遇し、危機に陥ったり、助けたり、優雅に楽しく暮らしたりを繰り返しながら、目的地である〈死者の町〉にたどり着き、やし酒造りと再会を果たす。やし酒造りに卵をもらって帰る途中にもまた危機に遭遇するが、妻の機転などによって助かり、故郷に帰還する。しかし、故郷は大飢饉のまっただなかであった。

 私がアフリカに目が向いたのが1971年で、翌年大学に入ってからアフリカのことについて勉強を始めた。従って、1970年に翻訳が出ていた『やし酒飲み」は早い時期に読んだが、あまり感心しなかった記憶がある。当時、私が求めていた、アフリカの自立・解放・連帯という時代の流れにそぐわないというか、逆行していると感じたのだ。つまり、「未開・野蛮・素朴」というヨーロッパ人が期待するアフリカを表現していて、彼らにおもねっている文学なのじゃないかと思っていた。

 今回、『薬草まじない』を読み、さらに『やし酒飲み』を再読してみたのは、「なんでこんな本を今ごろ復刊するの?」という最初の疑問がまずあった。つまり、チュツオーラの描く世界が本当に「アフリカの伝統的世界」なのか、どうか。私自身はあまり文化人類学的関心には乏しく、アフリカの人たちを同時代に生きる人間として共通の悩みを見いだそうとするから、違いを強調するようなものに重点を置かないからかもしれない。しかし、多様な文化の存在、文化相対主義の観点から、私が半ば意図的に見落としていたものがあるのかもしれないという不安もあったのだ。

 今回、この2作を通読して見て、お話=ストーリーテリングとしては面白いのだが、怪物や奇妙な人間の描写にはついていけなかった。日本人が江戸時代に思っていた幽霊・妖怪譚の類を現在のナイジェリアの人たちがおもしろいと思ってくれるだろうかとか、多神教(八百万の神々)の共通性と思って読んでも、チュツオーラの場合は本音は伝統主義ではなくて、最後はキリスト教にもっていくんだろうなと思ってしまう。西アフリカの人たちとのメンタリティの違いだけなのか。だから多和田葉子のいうような、現代日本の問題と重ね合わせて読むことはできなかった。

 土屋哲がいうように「『やし酒飲み』で、アフリカにも本格小説が存在することを世界に誇示した」という評価は、その当時の評価がそうであったとはいえ、現在では首肯しづらいものがあるだろう。さらに『薬草まじない』の解説者旦敬介が否定的に触れていることだが、チュツオーラが『やし酒飲み』を執筆した時期の第二次世界大戦前後の英国の影響と独立運動・民族意識・国民意識の相克を踏まえて、「アフリカの神話的世界」「アフリカの原像」として「自然状態」をよいものだとするロマン主義としてもてはやすのはもういい。2作ともに見られる「異種族に対する激しい暴力・残虐性」は特徴的で、それを「部族主義」の根源とするのももういいだろう。

 チュツオーラが果たして「伝統文化」を称揚したかったのか、疑問である。単に面白いお話をしたかったのではないか。日本人が昔話をする場合に、伝統文化を意識していたわけではないように。そういえば、チュツオーラをアフリカ的マジックリアリズムという表現があるようだが、ラテンアメリカでいえばガルシア・マルケスがそういう評価なのだろうか。解説者の旦氏は、ラテンアメリカ文学者でガルシア・マルケスの翻訳もしている人のようだ。ガルシア・マルケスのお話には歯が立たないから、私の文学的関心・興味ではチュツオーラの真価はわからないということなのかもしれない。ただ、ガルシア・マルケスの話の背景であるコロンビアを含めたラテンアメリカの状況が、私にはほとんどわかっていないから、暗喩が理解できない部分があるのだろうとも思う。チュツオーラの場合もナイジェリアの状況がわからないからということもあるのだが、果たして時代背景が重要な要素を占めていたのだろうか。「ローカルなものを書くことが、ユニヴァーサルな通用性をもつ」ということの評価は保留したい。

 とここまで書いてきたものを読み返して、明快な論理性に欠けていることに気がつく。出来ればチュツオーラを全面否定したいのだが、説得的な論理がなく、「まぁいいか…」となってしまう。ふと思ったのは民芸品・伝統芸術の世界でのヨルバの仮面とか彫像である。ヨルバとは限らず、西アフリカの熱帯密林地帯のそれはおどろおどろしい印象がある。東アフリカの例えばマコンデの仮面・彫刻は、すっきりと潔いというのはひいき目かもしれないが、ジャングルではない高原のサバンナという風土も関係しているのかなということでお茶を濁したい。



☆参照文献:
 ・エイモス・チュツオーラ作、土屋哲訳『やし酒飲み』(岩波文庫、2012年。初刊は1970年、晶文社)


(2016年5月1日)






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