読書ノート




読書ノート No.117


 

小川さやか『「その日暮らし」の人類学』


根本 利通(ねもととしみち)


 小川さやか『「その日暮らし」の人類学―もう一つの資本主義経済』(光文社新書、2016年7月刊) 

『「その日暮らし」の人類学』
 本書の目次は次のようになっている。
  プロローグ Living for Todayの人類学に向けて
  第1章 究極のLiving for Todayを探して
  第2章 「仕事は仕事」の都市世界―インフォーマル経済のダイナミズム
  第3章 「試しにやってみる」が切り拓く経済のダイナミズム
  第4章 下からのグローバル化ともう一つの資本主義経済
  第5章 コピー商品/偽物商品の生産と消費にみるLiving for Today
  第6章 <借り>を回すしくみと海賊的システム
  エピローグ Living for Todayと人類社会の新たな可能性

 まずプロローグでこう語りだす。勤労主義と怠け者(スラッカー)主義とのねじれに触れ、未来のために現在を犠牲にすることへの疑念を持つ考え方を紹介する。そして著者が分析するタンザニア都市部から東アジアに広がっていっている「その日暮らし」のインフォーマル経済が、現行の資本主義経済と相容れないものではないとする。資本主義、新自由主義的市場経済のアンチテーゼではなく、個々人は零細でも膨大な人びとが参入する経済規模は大きく、主流派経済にとって無視できない「下からのグローバル化」「非覇権的な世界システム」を作り出しているという。より人間的な新自由主義の論理で動いていて、主流派経済を存続させる役割を担っていると解釈する人たちもいるのだと。

 第1章では、先人たちの文化人類学的研究を紹介する。アマゾンの狩猟採集民ピダハンの「直接体験の原則」、タンザニアの焼畑農耕民トングウェ人の「最少生計努力」「食物の平均化」、あるいは「情の経済」などである。そしてそれは著者には魅力のない生きづらい社会に思えた。競争が抑圧される社会は楽しくないと思った著者は、アフリカの都市部の研究に入っていくが、その零細商人の世界でも互酬性、分かち合い論理が生きているのを見出す。「どうにかなったら、その時対処」という精神からは、平準化の圧力は抑圧ではなく、自然や社会との関係性に存在する時間を操る生き方の技法と解釈できると思い出す。

 第2章は、著者の15年間のフィールドであるムワンザのマチンガ(零細商人)調査の報告である。ブクワとハディージャの夫婦が交互に新たなビジネスに挑戦していく様子を描く。そして、一つの仕事を続ける方が世界じゅうではマイノリティで、タンザニアではインフォーマルセクターが主流派(66%)と述べ、「仕事は仕事」とえり好みしている場合ではないという、ジェネラリスト的・生計多様化戦略の現実を紹介する。その戦略を著者は「偶然に積み重ねた経験や人間関係、状況に応じて柔軟に変更され、実現する時には実現する」と評し、その「前へ前へ」の生き方に未来の可能性が埋め込まれているという。

 第3章では東アフリカ関税同盟の結成(2005年)などに伴い、隣国のケニアやウガンダなどに「ネズミの道」を通って買出しに行く様子を観察する。零細商人たちは中古靴、携帯電話の部品、衣料雑貨などを扱うのだが、先駆の商人に連れていかれ、儲かるとなると後続が殺到し、競争激化でうまくいかなくなる。しかし、先駆者は後続者に商売の秘密を教え、共同経営化も図られないのはなぜかと問う。そこには「クペレンバ」(宝探し)という仕入れ戦略があるという。つまり不確実性の高い市場では「試しにやってみて稼げないとわかったら転戦する」という短期戦略だというのだ。「わたしの運」という考え方も個人主義とは違い、「世帯」より大きな社会を単位に位置づけた戦略ではなかろうかと著者は思う。

 第4章では、いよいよタンザニア零細商人の中国への渡航が扱われる。香港のチョンキン・マンションを入口に広州その他の本土の都市に入っていく。人類学者ゴードン・マシューズの「新自由主義」が香港の主流イデオロギーであり、「下からのグローバル化」を肯定的にとらえる解釈を紹介している。「ここでの新自由主義は無政府主義なまでに徹底したものであるために、必ずしも大企業や多国籍企業が一人勝ちするような市場になっていない」(P.105)と。アフリカ人交易人と中国商人、そしてアフリカ人仲介業者との間の騙し合いを観察した後、「彼らの信頼とはその時々の交渉により発現する『誰も信用しないことによる、誰にでも開かれた信頼』であり、『反コミュニティ的』である」(P.115)という。そしてそのままならぬ状況のなかで生きている自分に誇りを持っているのではないかという。


ムワンザ市の長屋の子どもたち(2011年)

 第5章では、中国でのコピー・偽造商品の生産とそのタンザニアでの消費を見る。「下からのグローバル化」を「より人間的な新自由主義」と評価する人たちは、「法的な違法性」に対し「道義的な合法性(licit)」という概念、つまり社会的には許容されるとする。中国の山寨企業が展開する極限戦とその論理を述べる。そしてまがいものとしての中国製品(Chakachua)を購入するタンザニア人消費者の心理を解説する。それは「コピーや偽物がないと困る」「中途半端なオリジナルよりも、最低限を満たしたコピー商品」「いまあるお金で買えるモノ」「路上商売は『衝動買い』を当てにして成立している」と説明される。ここまでは第二次世界大戦前の日本製品が通ってきた道と似ているかもしれない。しかし、タンザニア人が中国製品を購入しているだけではなく、2010年代から中国系路上零細商人がタンザニア国内に登場し出すと話はややこしくなる。タンザニア人側に中国人自体を「まがいもの」「いい加減」「信用ならない」という否定的な評価がある。タンザニア人の生計戦略も同じなのに、中国人は「やり過ぎだ」となってしまう。著者は「下からのグローバル化を構成する人びとの間にある文化的多様性や経済的な力の不均衡が、いかに折衝されながら、アナーキーでありつつも『法的には違反しているが道義的には許せる』第三の空間を創出していくか」(P.168)が興味深いという。

 第6章では、「資本主義社会で、他人に借りをつくらず、誰の世話にもならず、自律的に生きることを賛美する現代人」に対するアンチテーゼを述べる。タンザニアの都市部で借金することは「借りる」のか「もらう」のかわからない部分があった。しかし携帯電話の送金サービス(Mペサ)の開始により、事態は大幅に変化したという。著者は「〈借り〉を回すシステム」といい、身近な人間同士の相互扶助で「誰もが誰かに金を貸しており、誰もが誰かに金を借りている」状況だという。政府の管理の下ではなく、「借りを回すしくみ」が展開するのはインフォーマルな領域、あるいはいまだ制度が十分に整備されていない「海賊的な領域」だという。「自前の優れた互助のネットワークがあったから、税金・許可料を無視して、政府に期待しなかった」(P.201~2)という。

 エピローグで次のように結んでいる。「下からのグローバル化」システムを理想化するのは、このシステムからかえって乖離するという。インフォーマル性(非公式性)とは何か、主流派の労働観・人間観、制度やルールを問い直すという。主流派からこぼれ落ちた人びとの間の必要性や論理をつなぐもう一つの資本主義経済、「自律的・自生的なインフォーマルな領域を押し広げていくことに、現在と未来との多様な接続のしかた、多様な生き方を許容するオルタナティブな社会・経済の可能性を感じている」(P.214)。タンザニアの人びとの浮遊・漂流する人生の持つ豊かさ、自信と、日本でよく聞く「根拠のない自信」-効率主義・能力主義の言説批判で終わっている。

 本書が『小説宝石』で連載されたというのはびっくりだが、どういう読者層を想定していたのだろう。テーマは斬新で面白いし、わかりやすく語ろうとはされているのだが、一方で研究者の語り口が抜けず、先行文献の紹介・引用・注・学術用語などが新書本としてはやや煩わしい。それは研究者として「主流派」に属する著者のプライドがそうさせているのか。

 本書は著者の処女作で、2011年サントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞した『都市を生きぬくための狡知』(世界思想社)の延長線上にあるが、タンザニアのムワンザという地方都市を飛び出して、東アフリカから中国へと世界は広がっている。そういう面では栗田和明の『アジアで出会ったアフリカ人』と重なる部分はある。しかし、栗田の関心があくまでもタンザニア人商人の海外進出であるのに対し、著者の関心はタンザニア人、あるいはアフリカ人という枠には収まらない。

 「その日暮らし」ということであれば、世界の歴史のなかで封建時代の都市の住民の大半はそうであったように思う。飢饉の農村を逃れて都市に流入した人たち、江戸の長屋の八つぁん、熊さんたち…。香港という都会は国家という存在が希薄のまま成長してきた、真空ではないが特殊な巨大都市なのではないか。あるいは東南アジアの膨張する首都圏にも似たような話がいくらでも転がっているように思える。もちろん、一般化しろといっているわけではない。


広州市のアフリカ系床屋

 著者は「はじめに」で次のように語り出す。「わたしたちの生き方と私たちが在る社会を再考することを目的としている」(P.7)。この「わたしたち」というのは何なのだろう?「日本人総体」を指すのだろうか?日本国家のなかでかつてない格差社会が広がってているとして、「わたしたち」というものが措定できるのだろうか。また「主流派社会」「主流派経済」という言葉が時々出てくる。この「主流派」という言葉の定義にはぶれがあるように感じる。著者は一見、その主流派の距離を置いているように感じるが、果たしてその立ち位置はどこになるのか。観察対象であるタンザニアのマチンガ、中国に出かけていくアフリカ諸国の交易人とは立場が違うことは明らかである。

 「もう一つの資本主義経済」という概念もどこまで有効なのか。著者のいうインフォーマル経済には、単なるビジネスではなく、それにかかわる人びとの生き方・志向という「海賊的な領域」が含まれているように思える。それが近代国民国家の管理からどれだけ逃れらるのか、巨大な経済規模となったものが国家から放置されるわけはなく、そこのせめぎあいがおこるだろう。主流派経済のオルタナティブになりうる可能性があるのか、単なる補完物に終わるのか、あるいはこの主流派の資本主義と似て非なるインフォーマルな「海賊的な領域」は、果たして資本主義と国家のフォーマルな領域に吸収されないのだろうか。もう少し見たい。香港の行方も。

 香港について著者はマシューズの解釈を紹介している。しかし、この解釈には強い違和感がある。19世紀から香港とはそういう都市だったのではないか?当時の資本主義の最先端であった大英帝国によって力づくでこじ開けられ、人工都市となった。英国企業(ジャーディン・マセソン社など)・多国籍企業の収奪の拠点となり、脱税などが展開され、中国本土から細民が押し寄せ、麻薬・売春・黒社会が横行する人間のゴミ捨て場となった。コスモポリタンな都市とは(戦前の上海も同じ)そういう意味で、ロマンティックなイメージとは違い、「上からのグローバル化」の最先端だったわけで、今零細商人が集まって来るから、活気づいているわけではない。「下からのグローバル化」という呼称への根本的な疑問があり、現在の中国共産党の統制強化、そして2047年以降はどうなるのかという先行き不透明なところがある。それをはねのけ、新たな歴史の可能性を提示してくれるのだろうか。著者自身による香港のフィールド調査の結果を期待したい。

 小さな苦情である。金額の表示・為替レートの取り扱いの仕方が不統一であるようだ。USドルでも日本円でも換算は構わないが、どちらかに統一してくれた方が親切だろう。タンザニア・シリング=USドル=日本円の為替レートは頻繁に変わるから、その当時のレートを使うのが妥当に思う。2016年9月の為替レートという予想レートはお愛嬌ではなくて単純なる誤植だろうが、P.56の「30万シリング=約14,000円」という表記はいかがなものか。つまり、2016年7月(本書の刊行当時)のレートであれば、Tsh2,180=US$1=105円くらいであるから妥当な表記だろうが、2007年当時のレートではない。2007年のいつごろであったかがわからないので仮に8月とすると、当時はTsh1,270=US$1=120円くらいだったから、28,000円前後が妥当なのではないか。つまり、ブクワが「大金」を投じて運転免許を取得しながら箪笥の肥やしにしたという例の「大金」の感覚である。ほかにもいくつか疑問箇所はある。

 タンザニアで長年暮らしているとフォーマルとインフォーマルの境界線は限りなくあいまいなものであることに気がつかされる。それは近代国家という存在がタンザニア全体を覆いつくしていないからだろう。「時間と約束は守る」「今日できることは明日には回さない」「借金はせずに、貸しも必要最小限に抑える」という日本人らしい(あるいは近代ピューリタニズム的な)発想で、フォーマルな零細企業を経営してきたなかで、インフォーマルとの違いは実は紙一重かなと感じている。それでも国家はその原則で管理しようとするし、人びとはできるだけ捕捉されないようにと努力する。でも別にアナーキーを志向しているわけでもない。タンザニアではインフォーマルセクターが社会経済の主流派であると書いている(P.54)が、「主流派」ではなく「多数派」と記すべきなのではないか。

 著者の前著のコメントで私は次のように書いた。「価値観の多様性、共存を認めるとして、このウジャンジャ・エコノミーが切り拓く将来を見通すのは、難しいことだろうと感じている。著者といまはまだ若いマチンガたちに、次なる展開を期待したいところである」(2011年)。それから5年経過して著者は新しい地平に到達したように見える。果たしてマチンガたちはどこに行くのだろう。携帯・Mペサという武器は手にしたとしても、その生活は大きな変化はないように見える。彼らの5年後、10年後が見通せないんじゃないかなぁと硬直した頭の世代は感じてしまう。「その日暮らし」だから先のことはわからないという生き方と、著者のいう「新しい人類文明の可能性に開けている」こととがうまく結びつかないのであった。


☆写真は本書のなかから。


☆参照文献:
 ・小川さやか『都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社、2011)
 ・小川さやか「路上空間から情報コミュニケーション空間をめぐるコンフリクトへ―タンザニア路上商人を事例に」
  (高橋基樹・大山修一編『開発と共生のはざまで―国家と市場の変動を生きる』京都大学学術出版会、2016)
 ・栗田和明『アジアで出会ったアフリカ人―タンザニア人交易人の移動とコミュニティ』(昭和堂、2011)
 ・栗田和明「移動する者から見た移民コミュニティ-広州へのタンザニア人交易人に注目して」
  (栗田和明編『流動する移民社会―環太平洋地域を巡る人びと』昭和堂、2016)
 ・島尾伸三『香港市民生活見聞』(新潮文庫、1984)


(2016年10月10日)






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