ザウォセ氏追悼





フクウェ・ウビ・ザウォセ氏葬儀の報告

根本 利通(ねもととしみち)



 2003年の年の瀬も押し迫って、悲報が届きました。
 タンザニアの至宝フクウェ・ウビ・ザウォセ氏が、12月30日朝8時20分、バガモヨの自宅で息を引き取りました。
 10月頃より体調を崩し、家で寝たきりになることが多く、投薬治療を続けていました。12月18日に日本から帰国したCHIBITEメンバーが手厚く看護したものの、既に手遅れの様子でした。

ザウォセの棺と妻たち  葬儀はバガモヨの自宅で、1月1日10時から執り行われました。
 当日は、ダルエスサラームから来た文化省の役人の代表、その中にはザウォセ氏がバガモヨ芸術大学教官だった時の学長マシンビ氏の姿もありました。また1993年、岡山の市民グループの招きで訪日したバガモヨ・プレーヤーズのメンバーであったムポンダ、バータ、マティツ氏をはじめとするバガモヨ芸術大学の教官、教え子たち、ヨーロッパ人、近隣の人々が、炎天下約3時間の葬儀に参列しました。
 私はザウォセ氏がキリスト教とは関係ない生活をしていたと思っていたので、伝統的なゴゴの文化に包まれた葬儀になると、(内心)期待していたのですが、英国国教会の牧師による賛美歌唱導の葬儀で、歌い手たちもゴゴではなく、スクマなどの楽団を雇っていたようで、ゴゴの伝統音楽が生んだ天才の葬儀としては、やや物足りない感じでした。最もこれは第三者の身勝手な感想というべきでしょうか、故郷のブギリ村を離れて、バガモヨの人々の中で葬られたわけですし、遺族は殆ど洗礼名を持っていますから、当然の成り行きだったのかもしれません。(故人が1984年には洗礼を受け、フランシスという名前を持っていたということは、遺族に教えられて初めて知った後日談でした)

 ザウォセ氏は裏庭に皆が大きな穴を掘って、そこに葬られました。ザウォセ氏が一昨年植えたというMbuyu(バオバブ)の幼木の脇です。これは生前、ザウォセ氏がそこに葬って欲しいと言っていたとのことです。お墓参りの目印になります。
ザウォセの葬列  私はザウォセ氏がもう長くないだろうと聞いた12月25日に、自宅でお見舞いしました。伺うとあの精悍で太ったザウォセ氏の姿はなく、一瞬氏のお父さん(もう100歳を超えて健在)かと間違える程、細く小さくなっていたことにショックを受けました。当時もう寝たきりで、意味ある言葉はしゃべれないと聞いていたのですが、その時はマットレスに起き上がって、しっかりと会話を交わすことが出来ました。氏が育てたCHIBITEの選抜メンバーはチャールスさんに率いられて、日本で2ヶ月公演して帰ってきたばかりですが、その結果、評判を気にしていました。自分がもうプレーヤーとして生きられないことを悟り、若者たちの先行きを心配していた監督の言葉でした。 

 葬儀の当日、遺族によって準備された故人の年譜を簡単に紹介します。正確かどうかは別として公式発表です。

  1935年 ドドマ州ドドマ地方県ブギリ村生まれ
  1966年 国立歌舞団に参加。
  1981年 バガモヨ芸術大学創立に参画。伝統音楽・舞踏学科教官。ゼゼ、イリンバ、フィリンビ、ンドノの楽器を教授。作曲。
  1994年 バガモヨ芸術大学退官。自宅でCHIBITEグループの育成に入る。
  1996年 ヘルシンキ・シベリウス・アカデミー大学(フィンランド)より、芸術博士号を受ける(以降、ドクター・ザウォセと呼ばれる)
  1996年 タンザニアの伝統音楽・文化の博士号授与。
  1996年 伝統音楽の作曲、歌唱、演奏に関するギネス賞受賞。
   2003年 永眠。

  ☆代表作 「Mateso」「Kilio」「Tupendane」「Nchi yangu Tanzania」
  ☆家族 妻5、子供18、孫16


ザウォセのお墓に花を添える  私は国際的に著名なミュージシャンとしてのザウォセ氏の、華やかな舞台は知りません。日本やイギリスでの音響や照明効果のいい舞台での公演は見たことがありません。また私は特にアフリカ音楽に興味があったわけではなく、1984年にタンザニアに住みつくまではザウォセ氏の高名を知らなかったほどです。 しかし、タンザニアに住むことによって自然に知り合い、バガモヨ芸術大学の古いステージ(表の庭のマンゴーの木陰)で、「驚異のイリンバ・アンサンブル」とCDで謳われた、ザウォセ、チウテ、ムクワマ氏の3人のトリオによるイリンバ・アンサンブルを何度も見る機会に恵まれました。その素晴らしさを紹介したいと多くの日本人に宣伝し、日本へ送る手伝いをし、不慮の事故でチウテ氏、ムクワマ氏を相次いで亡くして、ザウォセ氏が演奏が出来なくなるほど失意に落ち、その後若い甥のチャールスを育て、再び国際舞台に戻っていく過程をずっと見てくることが出来ました。

 その間、日本から彼を慕ってくる若者を教え、一族の若者を厳しく、本当に厳しく練習させる彼の姿を見、幼かった彼の子供、一族の若者がいつの間にやら立派な演奏家に育っていくのも見ました。彼の一族(CHIBITE)の今後やいかに、という心配は別にして、バガモヨ芸術大学の庭や、ザウォセ氏の自宅の庭で、裸足で大地を踏みしめて歌い踊ったザウォセ氏の笑顔、ひょうきんな腰の振り、その澄んだ高い声を同時代に見られた、聴けたその至福と、一つの時代が過ぎ去った寂寥感をかみしめています。
   合掌。

(2004年1月12日)

☆★2月29日に、ザウォセ追悼CDが発売されました。
オフィス・サンビーニャという会社のレーベル、ライス・レコードから、輸入盤にオビと日本語解説が付けられたという形で発売されました。 (CD番号:SAR-606)
CDは大型の輸入CDショップ(タワーレコード渋谷・新宿店、HMVなど)で扱われています。
その他、オフィス・サンビーニャへの直接注文も下記URLから可能です。
http://www.sambinha.com/




ムゼー・ザウォセの想い出

金山 麻美(かなやまあさみ)



ビールをうまそうに飲むムゼー・ザウォセと息子の篤史。1991年  ビールとラーメンが大好きだった。バガモヨの食堂で、缶ビールをうまそうに空けているムゼー・ザウォセの写真が手許に残っている。しかし、後年、糖尿病などの病気が出てきて、ビールはときどき自粛していたようだ。
ラーメンは日本公演に行った時に覚えたらしい。日本のインスタントラーメンをお土産に持っていくと、とても喜ばれた。夫が最後にお見舞いに行った時も、ラーメンを所望され、自宅に備蓄していたものを持参したそうだ。「食べられたのだろうか」と考えるとちょっと切ない。

ふくよかな体をゆすってイリンバの演奏していた。ステージ衣装の腰蓑をつけ、裸の上半身は、羽などで飾ってあることが多かった。日本公演の時に、体と共にゆれるふくよかなおっぱいを見て、ムゼー・ザウォセのことを女性だと思い込んでいた人々がいるのは、その道(どの道?)では、結構知られた話である。でも、なぜひげが生えているのだろうと、それらの人々はかなり頭を悩ませたらしい。

ムゼー・ザウォセが日本へ行く時、一度同行したことがある。ダルエスサラームの飛行場に現れた彼は、黒いサングラスをかけ、テカテカ光る素材でできた紫のシルクハットをかぶり、同素材の布でできたスーツ、中には赤いシャツを着ていて、ちょっと近くに寄りたくない雰囲気を漂わせていた。もともと存在感がある人だから目立つ服を着ると、それが倍増してすごい感じだった。ダルエスサラームでさえこんなに目立つのに、このまま日本に一緒に行くなんて…。トホホと思ったものだが、とてもよく似合ってもいた。
棺の中でもそのシルクハットをかぶっているそうだ。天国でも目立ちまくりだろう。

もう6、7年前になるのだろうか。イリンバの集中レッスンという名目で、(一日に1時間しかしなかったのだが)二人の子供と共に、ザウォセ家に1週間ほど泊めてもらったことがある。子供たちもまだ幼稚園くらいの年齢で、ザウォセ家のわんさかいるチビドモと毎日、泥だらけになって遊んでいた。
レッスンは、ムゼー・ザウォセの甥のチャールスに習っていたので、ムゼーと顔をあわせるのは、彼が自分のシャンバ(畑)に自転車こいで行こうとしている時か、チャイなどを飲んでくつろいでいる時か、庭を散歩している時などであった。うちの子供たちに「モハメド」と「ハリマ」という名前を付け、散歩などに一緒に連れ出してくれたりしていた。(それ以降、ザウォセ家ではうちの子供たちはずっとそう呼ばれている。本人たちも気に入っているらしく、ミドルネームで使っていることがある)
普段のムゼー・ザウォセは、ちょっとハスキーな声で、表情豊かにコミカルに話し、よくまわりの人たちを笑わせていた。

庭でイリンバを弾くザウォセ。1991年 しかし、夕方から始まるチビテの練習の時間になると、一転、鬼教官のような厳しい表情となった。本当にぶつことはなかったが、いつも鞭のような紐を持っていた。声が十分出ていないと何度も歌いなおしをさせた。踊りの振り付け、動き方、太鼓の叩き方、一つ一つにとても厳しかった。時には、自分で見本を見せていた。そのとき鬼教官は、一転してmwana muziki(音楽する人)になる。表情がぐっと和む。

1998年に日本でムゼー・ザウォセがセネガルの打楽器奏者やマリのコラ奏者と共演したことがあった。その二人は、それぞれ迫力のある、または優しくて力強い音楽を奏でてくれたが、ザウォセは、イリンバ弾きではなく、歌うたいではなく、ザウォセなのだと強く感じたのは、たまたまその舞台を見ることができたときだった。七色の歌声といわれた美声もイリンバやゼゼの音も全てザウォセと一体化していて、その存在こそがmwana muziki(音楽家=ザウォセ) そのものなのだと。その存在感のでかさ。しかし、彼は威厳のある音楽神ではない。甘い歌声で泣かせたり、たっぷりとしたおなかをゆすりながら踊ってわらわせたり、観衆をもそのオーラで包み込む村一番の音楽上手、歌上手なのであった。もし音楽神というものがいるのなら、その神をも惹きつけて離さないのがムゼー・ザウォセなのだったろう。ザウォセがその舞台で演奏した時、コンサート会場の渋谷のシアターコクーンが、一瞬、いつもチビテの公演をするバガモヨのザウォセのうちの赤土の庭になった気がした。

もう生の舞台は見られないし、歌も聴けない。笑顔にも会えない。
でも、ムゼー・ザウォセはその音楽とともにFuraha(喜び・幸せ)をふりまいた。それは根を下ろして、そして芽吹いてゆくのではないか。いろいろなところで。きっと。


*ムゼー(mzee)とは、スワヒリ語で目上、年上の人に対する敬称

(2004年1月20日)

 


寄せられた弔辞



私たち関西・南部アフリカネットワークは、ザウォセさんの訃報を聞き、深い悲しみ に包まれている。私たちは、96年から毎年タンザニアツアーを呼びかけ、毎回バガモ ヨでザウォセさんたちのコンサートを楽しませていただいてきた。演奏と踊りに感激 し、貴兄のすばらしい歌声に酔いしれ、最後は踊りの輪に加えていただいた。その人 数は100人をこえている。帰国後、参加者はコンサートの思い出を語り合い、多くの 人がまた行きたいと話していた。私たちはタンザニアと日本との距離を縮めたいと願っ ているが、まさにザウォセさんは音楽を通してそれを実現してくれた。04年もツアー を呼びかけるが、貴兄の姿を見ることができないのは、本当に残念だ。大切なタンザ ニアの友人を失って、これ以上の言葉が続かない。心から冥福を祈る。
関西・南部アフリカネットワーク

バガモヨや日本でのすばらしい公演ありがとうございました。
ザウォセさんのすばらしい演奏と、その中に盛り込まれたユーモアの公演を もう観られないのは残念ですが、ザウォセさんがお育てになられた、後進の方々 の公演を楽しみにすることにします。
ご冥福をお祈り申し上げます。
中島 明夫

このたびのDr.Hukuwe氏の訃報接し,衷心よりお悔やみ申し上げます。
突然の事でショックを隠せません。
タンザニアの偉大なミュージシャンが他界されたことは世界にとっても大きく心を痛 めることとなります。
氏は日本とタンサニアの国際交流にも多大な影響を与えた方なのでその悲しみはより いっそう深まります。
個人的には最近では03年夏にDr.Hukuwe氏より直接イリンバを習ったばかりで、 来年にでも再度レッスンを受ける予定の話をしていたのでとても残念です。
日本よりご冥福をお祈りいたします。
鈴木ヤス、鈴木アヤ

タンザニアの大地での魂揺さぶる音・声・踊りはザウォセファミリーを体験した人で ないと感じ取れない。
彼の魂の叫びが私の心の故郷の記憶の根ッコに触れたその瞬間、にんげんの涙がその 体内カラ眼ヘと恵みを与えた。
彼は世界中に種を蒔いた。カリンバの声が響く。確実に私の中にタンザニアの花が咲 いてる。これからもどう咲き続くのかは私次第、貴方次第。ポレポレで良し、もまれ て良し。益々味わい深く心の中に刻み込まれて世界から無限の宇宙へと繋がっていく だろうから。
森田なりみ

1991年12年ぶりに私が単独でマハレに行った帰り、根本さんに 連れて行っていただいて初めてザウォセに会ったときのこと、鮮明に 覚えています。干草を自転車の荷台に載せて畑から帰ってきたときの様子、 そして私のためにと演奏してくださったあの音、忘れようがありません。 あまりのすばらしさに思わず涙があふれ、その感動が1993年の日本公演 へとつながっていったのですが、それから丸10年、新年をむかえると同時に このような知らせに涙があふれます。
日本公演(1993年)のステージどれもこれもすばらしかった。ザウォセの演奏にどれほど多くの 聴衆が深い感動をうけたことか、聞き終わってもたち去りがたい人達の興奮した 様子も私には忘れがたい思い出です。ステージをおりると冗談ばかり言っていたのに 時に真顔で自分たちの楽器の話をしみじみとしてくれたことも、心に残っています。 残されたご家族の皆様の悲しみに心が痛みます。偉大なる音楽家に心からの哀悼を 捧げます。
川中健二、発子

ムゼーが残したものを大切にして、今後も精進してまいります。 故人のご冥福をお祈りいたします。Tufanye kazi pamoja!
サカキマンゴー

ドクターの歌声がもう聞けないことを、残念に思います。 心からお悔やみを申し上げます。14日からの練習、みんなでがんばってください。 灯を絶やさぬよう。
イエズ

フクウェ・ザウォセさんが亡くなられたことを聞き、驚くと共に 深い悲しみにとらわれています。
家族の皆様にお悔やみ申し上げます。
2003年の夏には元気に演奏を聞かせていただいた ことを思い出します。12月には大阪でチビテの人たちに 会うことができタンザニアがより身近なところになっていました。
ほんとに悲しいことですが、ご冥福をお祈りいたしております。
前川仁三夫

It was a great shock to me and my family. Please accept our most sincere sympathy in your sorrow. The memory of DR.ZAWOSE will always be a part of our precious heritage.
Midori & Jun Matsuba

また行けばいつでも会えるような気がするのに、その空の下に もうザウォセさんはいないのだと認識するのに時間がかかりそうです。
とてもさびしく、残念に思うのと同時に、1年半前に骨折を押して タンザニアに行き、CHIBITEのみなさんにお会いできて本当に良かったと 思います。ザウォセさんの技術と心が、多くの人の中に受け継がれることを 祈ります。
北木宏枝

Ninarangu ni Yuko Horita,nilikuja Baga moyo 6 years ago.
名古屋の堀田裕子です(旧姓 戸田)私は大 学4年の時、マイチケットさんの企画のタンザニアツアーに参加しました。いまから 6年くらいまえです。現地で、チビテのダンスや歌を聞いて、感動して涙が出たのを 思い出します。
Nimefurahi sana kuona ZAWOSE. 日本にザウォセさんが来日した時も、見に行きました。素敵な音楽の贈り物を本当に ありがとうございました。Asante sana.安らかにお眠り下さい。
Tafadhari kulala sana.
堀田裕子(旧姓戸田)

ザウォセさんといえば、皆の前で演奏してくださったお姿はもちろん、個人的にイリ ンバを教えてもらったときのことがとても印象に残っています。ふっくらした大きな 手が魔法のようにイリンバを奏で、まるで、大事な赤ん坊をあやすかのようだなあと 感じたことを覚えています。ザウォセさんに隣に座って教えてもらうと、ゆったりと した気持ちになって、とても心地よかったです。
贅沢な時間を過ごしたのだなあと今、思っています。
近いうちに、バガモヨに足を運んでザウォセさんのお墓参りをしたいと思っていま す。
西村祐里

 (到着順)


タンザニアの芸術家のトップへ戻る
トップページへ戻る